山田:日本でいちばん古い歴史を持つ茶筒屋さんがカフェをひらかれたと、メディアに取り上げられて大変話題になっていますよね。なぜカフェを始めたのかをおうかがいする前に、まずは開化堂の歴史についてうかがえますか?
八木:開化堂は1875年、明治の初期に創業した茶筒屋です。その頃、イギリスから輸入されたブリキが舶来モノとして大変注目されて、そのブリキを使って茶筒を作り始めました。そもそもお茶って、それまでは限られた特権階級しか楽しめなかったそうです。だから大名が自分の力を見せつけるような、とても重厚感のある茶筒が主流だったのですが、明治頃からお茶が一般に飲まれるようになり、茶筒もそれに合わせて変化していったようです。ちょうど文明開化の頃ですね。うちの開化堂という名前もそこからきています。
山田:なるほど、文明開化で、「開化堂」なんですね。言ってみれば、「その当時の最先端の材料でイノベーションを起こした」ということですね。
八木:いわゆるベンチャー企業ですよね。しかも、もともとは秤屋だったんですよ。
山田:はかりや?
八木:そうなんです。秤屋としてお茶屋さんをまわっていたそうなんですが、初代は手先が器用だったらしくって。お茶屋さんに、「試しに作ってみてよ」と言われて茶筒を作るようになったと伝え聞いています。
その明治の創業時からずーっと変わらない工法で同じサイズの茶筒を作り続けているというのがうちの最大の特徴です。
山田:秤という別の業態からイノベーションを起こして、茶筒のベンチャー企業になったんですね。創業から100年経っても、サイズも工法も変わらないってスゴいですね。
八木:そうですね、だから100年前の茶筒も、今、修理できるんですよ。とはいえ、実は全く変わらないこともないんです。その時代にあわせて必要なことは変え、守るべきところを守ってきました。
山田:「変えたところ」と「守ってきたところ」、ですか。
八木:守ってきたのは、デザインや実用性など色々あるのですが、特に、空気が中に入らない気密性です。蓋を開ける時の「すっ」と抜ける感じ。こういう“使っていて気持ちいいな”と感じる部分はずっと変えずにきています。でも、人の感覚って、時代によって変わってくるんですよね。人が感じる“気持ちよさ“を守るために、ほんの少しつくり方を変えたりしています。例えば、昔の人は、茶筒は蓋を真上に引き上げて開けるものだと理解していたけれど、今の人はペットボトルが普及したからなのかな、蓋はひねって開けるものだと手が覚えちゃっているんですよね。だから、気密性の確かさは変えていないのですが、感覚としては昔より少しゆるくしています。
山田:あ、そういわれてみれば、自分もそう開けているかもしれません。そういう人の感覚の変化にも対応してこられたからこそ、長く続いているんですね。
今、八木さんは6代目とのことですが、大学卒業後に一度外で就職されているんですよね?
八木:そうなんです。父に、商売として厳しい業界だから後を継ぐなと反対されまして。お前の好きなことをしろって言われていました。英語ができたので、京都ハンディクラフトセンターという京都のお土産屋さんで、海外の観光客に京都のお土産を売るという仕事をしていました。
山田:そうだったのですね。それでも戻られたのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。
八木:父の作った茶筒をお店で売っていたのですが、そうしたらアメリカからお越しの方が「日本のお土産としてではなく、キッチンで普段使いたい」と言って買っていかれたんです。アメリカ人の普段の生活に使えるものとして売れそうだということで、海外のマーケットでも可能性があるんだと思えたのが、戻るきっかけになりました。
山田:なるほど、それがきっかけだったのですね。
八木:父からは、「自分で選んだんやし、自分の責任やで」って言われましたけどね。戻ってからは職人として修行しながら、海外展開にも力を入れてきました。最近ではアメリカやイギリスを中心に、徐々に開化堂のファンも増えてきました。
山田:海外展開することで、八木さんご自身の気づきは何かありましたか?
八木:ありますね。実はロンドンはうまくいったんですけど、その次にいったパリで失敗しています。パリで実演販売やらないかって声かけてもらったんですけど、売れなかった。。。
山田:それは何か理由が?
八木:パリでは、売り場の意向で、ヨーロッパ人がイメージする「THE日本」の世界観で、作務衣を着て派手なグリーンの台の上で実演販売しなくてはならなくて。小学生に「ニンジャ!」って呼ばれる始末。ちょっとこれはあかんなーって思って、普段着でやらせてもらったら、売れ始めました。この経験から、「日本を忘れたほうがいいんだ」とわかりました。
山田:「日本を忘れる」とはどういうことでしょう?
八木:僕たちが、例えば「THE台湾」なお土産をもらっても、家になかなか飾れないのと一緒で、海外の人にとっての普通にならないと、彼らの暮らしの中に入っていけないんですよね。やっぱり茶筒って、使ってもらってなんぼ、なんですよ。それからは、各国の展示会では「日本らしさ」をほぼ排除するようにしました。いったん日本を忘れるんです。そうすることで海外のバイヤーさんも日本のものという意識を持たずにフラットに商品を見てくれるようになりました。
山田:なるほど、あえて「日本を忘れる」というキーワード、面白いですね。
さて、そろそろカフェについてお聞きしたいのですが、このカフェが京都らしい、いわゆる和風のつくりになっていないのも、この「日本を忘れる」という理由からですか?
八木:そうですね。僕は海外に行くことが多いので余計感じるのですが、京都に戻ってくると、逆に京都を推し過ぎているんじゃないかというきらいがありますよね。特に町屋を活用しようってムーブメント、もうそろそろええかな、と思って(笑) だからこのカフェも昭和初期に建てられた市電の内浜架線事務所を改修してオープンしました。外観の和洋折衷な当時のモダンなデザインはそのまま生かして、内装はデンマークのデザインスタジオOeOにお願いして、日本的なものをあえて感じさせないものにしています。けれどカフェで使用しているカップやカーテン、荷物かごなんかは、実は同じ京都の伝統工芸品なんですよ。
山田:そうなんですね!先ほどカフェを拝見しましたが、一見伝統工芸品だと見えないですよね。お店の雰囲気もおしゃれな北欧テイストですし。
八木:そう、それを意識しています。伝統工芸ですって強く出してしまうと、若い方なんかはちょっとひいてしまう。でも、手に取ってもらってはじめて良さがわかるものなんですよね、工芸品って。カフェの中で普通に使っているカップが、実は朝日焼の16代目が作ったものなんだ、とか、さりげなく気付いてもらいたいんです。このカフェは、もともと開化堂を伝えるための場にするために作ったんですけど、もう一つの狙いはそこにあります。
山田:京都の伝統工芸品を、若い方に知ってもらうということですか?
八木:そうです。若い方が伝統工芸に触れるきっかけづくりになればと。あとは、海外のお客さまですね。やはり京都という土地柄、多いですからね。実は以前、京都土産として売っているものの中に中国製のものを見つけたことがあって。京都にはいいものを作っている人がいるのに、このままでいいのかなと疑問に感じていました。そんな時、自分と同じ志をもった仲間がまわりにいることが分かって、本物の京都を知ってもらう活動(※)を彼らと始めたんです。その活動をはじめたおかげで僕自身も大きくジャンプできるようになって。
山田:大きくジャンプというと?
八木:うちは「職商売」っていって職人もやれば、営業もする。だから実際に売場にたつとお客さまの要望にすぐに答えられる反面、作る側、売る側のことがわかりすぎるので、何にしても飛躍しにくいんです。わからなければ、「えいやーっ」て新しいものを作れたりするんでしょうけど。
山田:なるほど。お互いの立場がわかるからこそ、思い切った発想がしにくいというか。
八木:そうなんですよ。でも、その活動のおかけで、他の仲間がジャンプしているところを見て刺激をたくさん受けるんです。例えば、西陣織の織屋「細尾」の細尾さんなんて、織物を構造化する研究で、マサチューセッツ工科大学のディレクターズフェローにもなりましたしね。僕たち伝統工芸の担い手は、ビルの10階分ビューンって思いっきりジャンプしても引き戻されるくらい、それだけ重い歴史と文化を背負っていると思っています。そんな強さを伝統工芸は持っているのではないかなと。重い分、流されずに安心していろいろな事に挑戦できるんだと思います。茶筒屋が全く違う業態のカフェを始めたのも、10階分ジャンプしてみた結果なんです。
山田:10階分ジャンプしても引き戻される…。僕たちにはなかなかわからない感覚ですね。こうして老舗が全く違う業態をおこすことで、本来の茶筒ブランドとしての開化堂へ繋がりというか、還元されるようなことなど、何か期待されていることはありますか?
八木:カフェを開いたことで、今までの茶筒だけでは伝えきれなかった、開化堂の世界観を伝えられたらと思っています。この「世界観」というのは言葉で伝えるのは難しいと思っていて、カフェに来られた人が、コーヒーを飲む中で茶筒を触ったり、店員からのサービスを受けたりした時に、はじめて「あ、開化堂ってこういうものなのかな」となんとなくわかってもらえるんじゃないかと。数値に置き換えられない感覚を、暗黙知で伝えていくことが大事なのではないかと思っています。
山田:暗黙知で伝える?
八木:そうですね、言葉でなく、体験してもらうことで、ブランドを理解してもらうというか。たとえば、うちの職人は、茶筒を開けた瞬間の気持ちよさを言葉でなく、手で伝えていっているんです。茶筒を作っている途中で、硬い、とか、ちょっと柔らかい、という微調整を毎日やることで、わかっていく感覚というのがあって。技術的な形式知については、AIでもできると思っていますが、そうじゃない暗黙知の部分を暗黙知として伝えていく価値が、人の手が生み出す伝統工芸の世界にあると思っています。
山田:確かに、そこに人の手が加わる意味があるんですね。カフェを開いたり、海外展開していたり、いろいろ動かれていますが、今後はどのようなことをお考えになられていますか?
八木:大きな目標が一つだけなんですよ。「100年先も同じ茶筒を作って行くにはどうしたらいいか」ということしか考えていないです。 そのために茶筒自体をもっと知ってもらわなければいけない。工芸自体をもうちょっと理解してもらわないといけないと思っています。そのきっかけとして、まずこのカフェをつくりました。海外展開も、100年先の需要作りの一環です。100年需要があれば、100年ずっと茶筒作り続ける事につながりますからね。
山田:最後になりますが、伝統産業の中で革新的なチャレンジをしている人に対して、アドバイスやメッセージがあれば、ぜひ教えていただけますか。
八木:実は僕、伝統って革新の連続だとは、あまり思っていないんです。革新って過去からの繋がりをいったん切ってしまっているようなイメージがあって。でも僕たちがやっていることは昔からずっと繋がっているんです。その繋がりの中には、毎日の暮らしが密接しています。それを大事にしてきたからこそ今も開化堂が残っているのだと思います。
例えば、僕が小さい頃は祖父の膝の上に座って遊んでいたんです。今は僕の子どもが僕の父の膝の上に座って遊んでいます。やっぱりそういうのが大事なんじゃないかなぁ。
革新は過去を切っているイメージをもってます。
山田:毎日の暮らしをずっと続けていくというところがポイントなんですね。
八木:はい。僕が開化堂に入った時に、茶筒づくりを祖父の金槌でやりはじめたのですが、しばらくして、新しい金槌を自分用に買ったんです。その時にはじめて、50年間打ち続けた祖父の金槌が(新品の金槌のサイズと比べて)こんなに小さくなっていたんだって気づきました。祖父が本当に伝えたいことは、ただ単に金槌の使い方だけではなくて、これだけ毎日しっかり仕事をせなあかんでっていうことだったんだと。ここから学べる事は多いですね。
技術を次の職人に伝えることも大事ですが、ただ単に言葉で教えるんじゃなくて、毎日のちょっとしたことを、こっちだよこっちだよって暗黙知で伝えていく。その積み重ねが、将来大事になってくるんじゃないかなと思っています。
山田:本日はありがとうございました。
博報堂ブランド・イノベーションデザインでは、これからのブランドには「志」「属」「形」の3要素が不可欠だと考えています。「志」はその社会的な意義、「形」はその独自の個性、“らしさ”、「属」はそれを応援、支持するコミュニティを指しています。(詳しくはこちらをご覧ください)
今回は「属」の視点から、「開化堂」と「Kaikado Café」から読み取れるこれからのブランド作りのヒントを考えてみたいと思います。
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