■満永からの推薦文
太郎さんは博報堂グループの中で尊敬する、特殊なキャリアを歩んでいる先輩の一人。
韓国で一緒にコンペ参加したり、ミュンヘンで太郎さんが在籍してた会社を訪問させてもらったことも。元々コメディアンとして活動されていたからこその、アイデアだけではない、構造化能力から、人を笑顔にさせるプレゼン能力まで。自分が持っていないものが多いからこそ、早々に自分は自分だけの領域を世界一極めようと、思わせてくれた一人です。
太郎さんをはじめとした一個上世代(ヤングカンヌ常勝世代)がカマしすぎたせいで、20代半ばで若手広告コンペを出すのを全てスッパリやめて、別の修羅の道を進む事になりました。責任とってくれよ!
——今回登場するのはコピーライターとしてグローバルにも活躍している谷脇太郎さんです。谷脇さんは、推薦者である満永さんの新人研修時のメンターを担当されていたんだとか。
谷脇太郎(以下、谷脇):そうですね。当時から満永はいい意味で“変なヤツ”。あの頃はまだスーツだったんですけど、出してくるアイデアはパンクで面白い。それでいて鮮やかに課題解決ができている・・・と、勝手に嫉妬していました(笑)。
——後ほど詳しく伺いますが、谷脇さんは博報堂と業務提携をしているドイツのサービスプラン・グループで働いた時期もあったとのこと。推薦文にもありますが、満永さんは谷脇さんに会うためにミュンヘンにも来られたんですね。
谷脇:日本からわざわざ足を運んでくれた、数少ない一人です。「行きたい」と言ってもなかなかそれを実現できる人は少ないですが、彼はやはり行動力がある。全てのアイデアをちゃんと形にするところにも尊敬します。
会った当初から、満永は外見もどんどんクリエイティブになってきていますよね。この業界って、見た目を個性的にすると「内面も相当クリエイティブだろう」って期待値が上がるんですけど、彼はそのハードルを永遠とクリアしてる。やっぱりジェラシーです!
——谷脇さんの幼少期からお話を伺いたいと思います。どんな学生だったのでしょうか。
谷脇:これはいろいろなところで話していることなのですが、僕は学生時代からずっと「モテたい」という感情がひとつの原動力でした。でも僕はイケメンでもなければ、足が速いわけでもない。何か一つモテの要素を極めようとした時、それが“お笑い”だったんです。面白いやつはモテる。これはどの時代でも変わらないなと。
中学時代には親の仕事の都合でアメリカに引っ越したんですが、当時現地で見ることができたお笑い番組はNHKの「爆笑オンエアバトル」くらいしかなくて、番組をチェックしては出演している芸人のネタをコピーする日々でした。中3の夏に帰国し、クラスメイトのお笑い好きと「漫才をやろう」と舞台に立ち始め、「M-1甲子園」に出演して、大学時代もお笑い漬け。その頃は事務所にも所属して、本格的にお笑いの道で生きていこうとしていました。
——濃厚な学生時代のエピソードですね。事前にいただいたプロフィールには「パティシエを目指して製菓学校に通っていた」という文言もあったのですが…。
谷脇:唐突ですよね(笑)。でも、学校に行くくらい本気でした。今でもケーキ屋をやるのは僕の夢です。先ほどアメリカ時代の話をしましたが、向こうのお菓子は僕の口には合いませんでした。甘いし、謎のアイシングがかかっているし。美味しいケーキを食べたいと思ったら自分で作らないといけなかったんです。
僕、昔から数字を一つ一つカチッと計る作業が好きなんですよ。お菓子作りにはこの作業が欠かせませんから、それを細かくやりつつ、自分でもレシピを見ながら見様見真似でケーキを作り始めたら、結構上手く作れたんです。周りのお母さんたちからも「上手ね!」なんて褒められたらつい自惚れてしまって、お菓子の道を極めたいと思うようになりました。
なので、日本に帰ってきてからの目標は「パティシエ芸人」になることでした。そして究極的な夢は「ケーキ屋を持ってる、売れっ子芸人」! 高校に通いながら夜は製菓学校でお菓子作りを学び、空き時間にネタも書く。大学で商学部に進んだのも、「ケーキ屋をやる」という夢を叶えるために、経営を学びたいと選んだ進路でした。
——今のところ、谷脇さんが博報堂に行き着くイメージが湧いていません(笑)。
谷脇:そうですよね。お笑い芸人への道は紆余曲折あって断念することになりつつも、やっぱりケーキ屋をやる夢は諦めきれませんでした。けれど、店をやるほどの資金がなかった。それならまずは就職しようと、就活することにしたんです。せっかくならお笑いの能力も活かせそうな場所に、ということで広告やエンタメ業界を志望していました。
テレビ業界や作家といった道も良さそうだったんですが、博報堂に決めたきっかけは、アートディレクターを志望していた姉の存在です。姉が持ってきた博報堂の採用パンフレットがすごくおしゃれで、一気に引き込まれました。そして調べれば調べるほど、自分が「かっこいい」と思っていたCMを作っていたのが博報堂だったのがわかったんです。おまけに、当時博報堂社内にお笑いグループがあることも知って、「ここなら働きながらお笑いもできそう」と思い、入社を決めました。それに、広告会社でクリエイターっていうとモテそうですしね!
——今はコピーライターとして活躍されていますが、当時から志望されていたんですか?
谷脇:そうですね。仕事の幅が広そうでしたし、自分のできそうなことを包含している職種だと思いました。でも、もちろんすぐコピーライターになれたわけではありません。入社前のクリエイティブテストでコピーを書く機会があったんですが、その時「これ、大喜利ってことか」とおかしな解釈をしてしまい、今思えば意味不明なことを書きまくりました。もちろんコピーは大喜利じゃありませんから、バッサリ切られてコピーライターにはなれず。プロモーションという、当時イベントやプレゼントキャンペーンをやるような部署に配属されて、入社直後は「夢破れたな」と思いました。
ただ、ちょうど僕が入社した時に、プロモーションの部門に、コピーライターとアートディレクターも一緒にセットして化学反応を期待する「クリエイティブ部」というものができました。そこで最初に入った案件で、クリエイティブディレクターの方から「15秒の漫才を100本書いてみて」というミッションをいただいて。言わずもがな、僕がこれまでずっとやってきたことだったので、楽しく書かせてもらい、それを先輩方が達人芸で15秒のCMに仕上げてくださいました。気づけば、自分が書いた漫才がCMになって、あっという間にCMデビューしちゃったんですね。
——なんという鮮烈なデビュー! 驚きです。
谷脇:お恥ずかしながら、当時は「我、天下取ったり!」という気持ちで浮かれていました。それが入社してすぐの夏頃のこと。すると「いきなりCMデビューしたすごい新人がいるらしい」といろんな仕事に呼んでいただいたのですが、もちろん僕が書けるのは漫才だけ…それから先はお察しの通り、鳴かず飛ばずで。それからは永遠と捨て漫才を考えるような日々。そんな絶望期に入ってきたのが満永だったので、それは嫉妬しますよね。
——起死回生を図るべく、次はどのようなことにチャレンジされたのですか?
谷脇:賞を取ることです。当時同期でコピーライターになった人たちが、賞をとり始めてどんどん上のステージに上がって行き始めました。そんな彼らに追いつくためには、自分も賞を取らなきゃと思ったんです。でも、僕はあくまでプロモーション職であり、基本的にコピーの仕事はないので、みんなと同じように賞は取れない。そこで目をつけたのが、誰でも挑戦できるヤングカンヌでした。
ヤングカンヌは広告業界のM-1グランプリと言われたりもするアイデアコンペで、若手クリエイターの登竜門的存在です。僕自身もM-1に挑戦していることもあって、全く日の目を見ない人間が一夜にしてスターになるあの感じに憧れていたんだと思います。
——なるほど。お仕事をしながら、コンペの準備をするのはなかなかハードだったのではないでしょうか。
谷脇:そうでした…と言いたいんですが、先ほどお話ししたように、1年目の終わり頃から全く成果を出せていなかったので、結構暇だったんです。準備期間中は、ひたすらデコンしました。ありとあらゆる受賞事例を見て、この企画はどう成り立っているのか、頭で要素分解をして、研究を重ねたんです。
先ほど「お菓子の分量を計る作業が好き」というエピソードをお話ししましたが、同じように、この企画はこういう材料で、それをこんな製法でまとめている、とデコンする作業が好きだったんですよね。あと、幸い英語が分かることも他の同期にはないアドバンテージだと思い、海外のニュースメディアの事例なども見ていました。
——他者よりインプットの質が高かったということですね。そして、ヤングカンヌでは結果を残されて、入社4年目に念願のコピーライターに職種転換されました。
谷脇:“ザ・クリエイティブ”という部署に異動し、そこからは修業でした。100本ノックをしたり、大きなブランドを担当させて頂いたりする中で、クリエイティブとしての基礎体力を付けさせてもらったと思います。
次の転機は7年目研修のタイミングでした。その時「旗を立てる」というテーマでこれからの自分と向き合う機会があったんですが、他の同期とは違う旗を立てようと思って行き着いたのが「グローバルCDになる」という目標でした。クリエイティブに異動して以降、繰り返しコンペに出るようになって気づいたのが、どうやら日本の「面白い」は世界の「面白い」と少し違うぞ、ということ。デコンのおかげで、グローバルで評価されるアイデアの筋肉が少し付いてきた中、グローバルで評価される「面白い」を極めた方が、頭一つ抜けられそうだと思ったんです。
——それからドイツに渡り、博報堂と業務提携をしているサービスプラン・グループで働くことになります。
谷脇:ドイツに行くと、やはり「面白い」の概念が全く違って、驚かされるばかりでした。funnyもinterestingも、日本語の「面白い」とはイコールにならないんです。けれど、共通する部分があることに気づけました。その共通点の一つは「本能」。これは、人間が持つ一番強いインサイトだと思っています。例えば「自分の赤ちゃんは、自分にとってのアイドルである」というインサイトはおそらく本能で、それは日本人であろうが、スマホを持っていない地球の裏側のお母さんであろうが、同じ感情でしょう。本能はみんなが理解できるから、アイデアにしても全員が理解できるんです。だから本能は最強だと思います。
加えて、「グローバルな関心事」。例えばサステナビリティは、人類全体の課題だからこそ、否定する余地がない企画になります。ドイツに行ってから、この「本能」と「グローバルな関心事」はすごく意識するようになりました。
ただ、これらは世界共通のインサイト。僕がちゃんと向き合っていくべきなのは、例えば東南アジアの女性のインサイトのような、自分とは属性が違ってイメージしにくいインサイトだと思っています。
——未知のインサイトを理解していくには、これからどのような働き方が必要だと思われますか?
谷脇:協業だと思います。自分が所属していないマーケットで、深く刺さって、人を動かせる企画を作りたいと思っても、それは一人ではできません。誰かと一緒にアイデアを出し合うからこそ、見つかるインサイトがあるはずです。僕は一人で手を動かしてしまうタイプの人間なのですが、自分の筋肉だけでは限界があると思っています。
だからこそ、自分が「こういうものを作りたい」というアイデアをしっかりと共有できるよう、解像度高く伝えられる人になりたいんです。自分のイメージを正しく言語化して、伝える。そしてもっといいものをみんなで作っていくファシリテーション能力が、今僕が鍛えるべきものだと思っています。
僕は日本という国が大好きです。ドイツ時代、ドイツ人だけでなく、インドやセルビア、ベルギーの人たちとチームになって仕事をしていましたが、彼らの個々の素晴らしさはもちろん言わずもがなでありつつも、日本人の緻密で、礼儀正しくて、真面目な性格は、なかなか真似できるものじゃない。今は、この日本という国がもっとモテてほしいという思いで、日本からグローバルキャンペーンを作るのが目下の目標です。
もちろん、その先の先にある夢は「ケーキ屋をやる」こと。僕の憧れの有名なパティシエは、誰よりも早く店に来て、掃除をして、粉を振るという雑用を続けて1日を終えるそうです。なぜなら、一番下の人がやることをトップの人間がやれば、誰も手を抜けなくなるから。かっこいいですよね。僕もデコレーションは苦手ですが、いつか自分の店で粉を振って、夢を叶えたいと思っています。
取材・執筆=田代くるみ(Qurumu)、撮影=杉能信介