ゲスト:
平田 オリザ 氏
劇作家・演出家
芸術文化観光専門職大学 学長
聞き手:
末富 新
博報堂こそだて家族研究所
ストラテジックプラニング局 ストラテジックプラニングディレクター
伊勢 壮太
博報堂こそだて家族研究所
ミライの事業室 ビジネスデザインディレクター
神長 澄江
博報堂こそだて家族研究所
博報堂コンサルティング コンサルタント
神長
社会、経済、環境などあらゆる分野で大きな変化に直面するVUCA時代にあって、子どものために何を選択すべきか悩んでいる子育て家族も多いと思います。特にここ数年は「非認知教育」への関心が社会的にも高まっていますが、言葉だけが先行し、その本来の意味をよく理解できておらず、結局何をしたらいいのかわからないという親御さんも多いようです。オリザさんは、この「非認知教育」をどのように捉えていますか。
平田
まず押さえておきたいのは、非認知能力という特定の能力が存在するわけではないということ。忍耐力とか好奇心とか、やり抜く力、集中力など、数字に表せないさまざまな能力をすべて非認知能力と定義しているということです。また、それらの能力のうち何か1つが伸びると、ほかの力もそれに引っ張られて伸びるという特徴があります。非認知能力を伸ばすために何をしたらいいかわからないというお話でしたが、普通に子育てをしていれば伸びるはずの能力であり、皆さんすでに取り組んでいるのだと思います。
ではなぜ、意識的にそこを伸ばすべきと言われているのかを考える必要があります。
少し遠回りの説明になりますが、たとえばプロ野球やサッカーの選手に早生まれが少ないという現象は、野球もサッカーも学校スポーツで、学年ごとの縛りが強い日本や韓国で顕著に表れます。まだ体格差が大きい小学生同士でレギュラーを争うとなると、どうしても早生まれの子が不利になり、そこから自然と淘汰されてしまうからです。
同じように非認知能力も幼保から小学校低学年くらいが一番伸びるし、差もつきやすいと言われています。かつてを振り返ってみると、学校では今と同じように学年縛りが強かったとしても、学年を超えた交流を地域社会が補っていた。早生まれの子だって近所で年下の子と遊ぶことでいろんなチャンスを得られていたんです。つまり、これまで地域社会が担っていた役割を何かで補わなくてはならない時代になってきた、というように理解しなくてはなりません。
末富
なるほど、時代の変化の影響もあるのですね。
平田
本来自然状態でも手に入れられる能力ですから、それほど難しく考える必要はありません。ただ、今は子どもたちを自然に育てられる環境ではなくなってしまっているので、補う必要がある。非認知教育とは、言わば現代人に足りない栄養を補うサプリみたいなものです。ちなみに僕が住む兵庫県豊岡市は近所付き合いも適度にあり、自然の中でのびのび子どもを育てられています。でも皆さんみたいに都会で子育てをしているご家庭は、サプリが必要なのかもしれませんね。
神長
家庭でも、そうしたサプリを取り入れて何かしらの能力を伸ばすということはできそうでしょうか。
平田
学力ともっとも相関関係があるのは好奇心です。“知りたい”という気持ちが一番大きいというのは、統計からも経験からも明らかです。その好奇心があれば、集中力ややりぬく力は自然と引っ張られて付いていきます。子どもにとってそういう好奇心がみつかる機会をたくさん用意してあげることは大事かと思います。
末富
最近は親がいろいろと口を出してしまって、子どもの好奇心がそがれてしまうという話も聞きます。
平田
親はできるだけ関与しない方がいいですよ。子どもは親の背中を見て育つので、教えるよりも、自分が好奇心を持って人生を楽しむ姿を見せることが一番だと思います。たとえば家の中にある大人用の本の数と、小学校6年生時点での学力テストの成績には強い相関関係があるといわれています。「親は何を読んでいるんだろう?」と気になるので、難しい本ほどいいんです。
もちろん親が教えられるに越したことはありませんが、教え方が下手だと子どもがそれを嫌いになってしまい、やる気がそがれてしまうのが問題なんです。好奇心とやる気はほぼ同義で、このやる気をいかに持たせるかが重要です。教え方が下手だったり、毎日「勉強しなさい」とうるさく言っていると、子が勉強嫌いになるというリスクがあります。
末富
僕の5歳の子どもが恐竜好きなので、図鑑やらフィギュアやらを与えていたんです。すると、親が子の興味を追い越してしまって、子が興味を失ってしまうという現象に陥ってしまって…。「やっちゃったな」と思いながら今聞いていました(苦笑)。ご著書でも、「待つ勇気が必要」と書かれていましたね。
平田
子どもは好奇心さえあれば自分で情報を得ようとしますから、いろいろと買ってあげたいところを我慢して、あえて先延ばししたり足りない状態をつくってあげた方がいいですね。
遠回りに思えても、たとえば英語の塾に通われるのもいいですが、部屋に世界地図が貼ってあって、ニュースを見ながら「ウクライナってどこだろうね」「パレスチナはどこかな」などの会話を普段からできるかどうかの方が重要だと思います。早生まれの子の親が子どものハンデをなくそうと早めに学習塾に通わせてしまい、かえって非認知スキルが育たないという逆説的な話もあります。
神長
オリザさんは、演劇手法を取り入れたワークショップなどを通じ、学校現場におけるコミュニケーション教育を長らく実践されています。コミュニケーション能力や対話力と、非認知能力はどのように関連しているのでしょうか。
平田
現代の私たちはあらゆることをインターネットを通じて目撃していますが、それらは情報である以上、すべて誰かの手によって処理されたものです。その情報の回路の中だけで思考する癖がついてしまうと、不規則なものに耐えられなくなります。だからこそ今教育学でも、自然体験の重要性が説かれるようになってきました。自然を通して、不規則性、予測不可能性に子どものうちから触れることが大事だということです。体験の不足は身体性の欠如にもつながっていきます。だからプログラミングを授業でやるのもいいですが、私としては幼少期はロープジャングルジムとかボルダリングをやった方がいいんじゃないかとも思います。どの縄を持ち、どの回路を選べば、落下を回避できるかなど、プログラミングと同じことを全身を使って、身体のリスクを伴って学べますから。
そして、もっとも不規則なものは何かというと、それは、自分ではない他者なんです。皆さんは、自分のことを知っていて好きでいてくれる“家族や友達”、自分のことを知っているけど好きかどうかは分からない“知り合い”、自分のことも知らないし好きでも嫌いでもない“赤の他人”に囲まれて生活しています。ところが少子化の今、子どもたちの多くが、この“知り合い”のバッファが少なくなっていて、自分のことを知っている人=自分のことを好きな人とだけ接して生きている。こういう環境では、より多くを言語化して伝える必要がなくなりますから、コミュニケーションが非常に苦手になってしまいます。
長くなりましたが、他者と触れることによって、表現力とか理解力、想像力などを身につけていくことが人間の成長につながるのであり、それが難しい場合に役立つと僕が考えているのが、演劇なんです。自分が他者を演じてみることによって、「なぜこの人は今こんなことを言ったのだろう」、「こんな行動をしたんだろう」ということを考え、身をもって体験できるからです。
末富
演劇が、不規則性を体験できるサプリになるわけですね。ご著書の中でも他者と接触する機会をシャワーを浴びるように増やしていかなければならないと語られていました。
平田
かつてのように、隣近所や商店街で、身近な他者と関わり合いながら成長するという環境はなくなってきていますから、キャンプや校外活動に参加するなどして人為的にそういう体験をさせるしかありません。ただそれもお金がかかりますから、今はますます体験格差が生まれやすい状況です。
伊勢
海外だと多くの国で演劇が公教育に取り入れられていると、オリザさんの講演で知りました。やはり他者理解、コミュニケーションを学ぶという意味でも、その有効性が認められているということですよね。
平田
そうですね。日本も戦後、演劇が教育に入り込むチャンスはあったと思いますが、日本の演劇は反体制の表現として定着していて、学校の指導要領などに合わせるような努力はしてこなかったという経緯があります。一方、たとえばイギリスは教育としての演劇に非常に熱心に取り組んでいます。旧植民地から多くの移民がやってきてイギリスの地方都市がどんどん多国籍化する中で、人々をつなぐのは芸術であり、異文化理解、他者理解に演劇が非常に有用だと考えていたからです。
末富
昔から、「人の立場に立って考えなさい」と言われますが、それも演劇の一環ということですね。
伊勢
一度なり切ることで、その気持ちが捉えられて疑似体験できるということですよね。
神長
そうした演劇の手法を、家庭でも取り入れることはできるんでしょうか?
平田
ごっこ遊びがその際たるものですよね。役割をシャッフルするというのも演劇の面白さなので、試してみてもいいと思います。本当は子どもたちだけでやるのがいいですが、難しければ親が関与してもいいのではないでしょうか。
神長
ここから少し未来のことも伺ってよろしいでしょうか。5年後、10年後を見据えたとき、どのような教育のあり方が求められるでしょうか。
平田
都市部では中学受験する子が増え、公立中学に行く子が大きく減っている地域があります。その一番の懸念は、防災面です。なぜなら地元の中学校に通っていないと、近所でもその子がどこの子だか分からなくなってしまうし、登下校時に大災害でも起きると、帰宅難民の子どもたち、そして迎えに行こうとする親たちで大パニックになるのが目に見えています。要は、公教育が機能しなくなりつつあるんです。
教育はもっとも個別最適が全体最適を壊しやすいジャンルともいえます。親は自分の子どものことしか考えませんから。公教育の崩壊は、多様性の理解の面でも、問題だと思います。日本は相対的貧困なので、小学生くらいまではあまり違いはわかりませんが、中学生くらいになると、「ボウリング行こうぜ」と誘っても「金がないからやめとくわ」と言われて、「ああ、あいつのところは裕福ではなかったな」とうすうす分かってくる。親が同じくらいの所得層の子どもだけが集まる環境では、そうした気づきも得られず、他者理解ができない大人になってしまう。これは危険なことだと思います。
末富
経済的に余裕がないご家庭の支援策を設ける学校もあります。それも、多様性を確保する施策と捉えることもできるでしょうか。
平田
余裕のある優秀な学校はそうした取り組みを頑張っていますが、2番手くらいの学校となるとなかなか難しいですね。どれだけ良い大学に入れるかが親からも問われることになるので、効率的に教え込もうとする。本当は子ども一人一人の学びを見ることが大事なんですが、教育はなかなか思ったようにはいきませんね。
伊勢
現実はなかなか厳しい中で、オリザさんが今取り組まれていることや、理想とする教育とはどんなものか教えてください。
平田
私が今住んでいる豊岡市で教育改革が進んだ背景をお話しますね。昭和30年代、東井義雄先生という教育者が、「村を捨てる学力、村を育てる学力」という概念を提唱していました。日本全体が高度成長期にあって、このままだと成績のいい子から大都会へ出ていき、村がすたれてしまうから、共同体の力を育むような学力に変えていくべきではないかというんです。つまり故郷への愛がなければ、学力なんて意味がないということです。その東井先生の教え子たちが、ちょうど今教育長や校長の地位にあり、故郷をより良くするような教育を目指すようになった。たとえば英語教育も、国を捨てる学力ではなく、地域の国際化のための英語教育の方が大事だということです。豊岡市はインバウンドで多くの外国人が来ますが、城崎温泉のお土産店の方々なんか、翻訳機片手に堂々と外国人と渡り合っている。そういうコミュニケーション能力の方がずっと大事だと思うんです。
いろいろお話しましたが、子どもたちの未来につながるような教育をつくれたらいいと思って、私なりに、今いる豊岡市の立場で、新しい教育の最適解、今の時代の最適解を示したいと思っています。
神長
ありがとうございました。最後に、今子育てに迷い、翻弄されている親たちへメッセージをいただけますか。この3人がまさにそうなんですが(苦笑)。
平田
今はあまりにも情報過多ですよね。インターネットという広大な海の中にいて、どれを選べばいいのか誰にも相談できない、そして孤独を感じてしまうような状況です。
やはり一番大事なのは、親が自分の人生を豊かにすることだと思います。これは働き方を変えるということにもつながります。最近は子どもの学校行事のために仕事を休む父親も増えていて、時代は確実に変わったと感じます。じゃあ次のステップは何かというと、たとえば同僚や部下が、好きなアイドルのコンサートが少し遠方であるという時に、職場で背中を押してあげられるか。特に女性が、独身時代に謳歌していたような文化的な生活を、結婚や出産、子育てによって諦めなくてはならない社会であれば、当然少子化になります。子どものために何かを犠牲にしなくてはならないというマインドを変えて、親は自分の生活を、人生を充実させていくべきです。そして、そういう人たちが後ろ指を差されない社会をつくらないといけないと思います。
伊勢
まず我々親が自分たちの人生を楽しんでいかなくてはいけませんね。
末富
結局はそれが子どもにとっても大切だということですね。非常に学びになりました。
神長
今日は貴重なお話をたくさんうかがうことができました。ありがとうございました!
「足りないくらいでちょうどいい」
子どもが何かに好奇心を持つと、つい与えすぎてしまうことがあります。しかし、子どもの自発的な興味関心を引き出すという観点では、与えるのが逆効果になることもある。むしろ、あえて与えるのを先延ばしにしたり、足りない状態を作ったりするくらいでよい。オリザさんとの対話を通じて、このような発想の転換があったように感じました。(末富)
「親が楽しんで生きていて良い」
”能力”や”教育”という言葉は、親としてどうしても子どもに練習や鍛錬させることを想定してしまいます。非認知能力は、意欲や忍耐力・コミュニケーション力など、そもそも人生の経験の中で培われることだからこそ、親自体が楽しんで自分の人生を生きていることが大切だというオリザさんの言葉は、親としてのあり方を解放してくれる新たな視点だと感じました。(伊勢)
「好奇心で満たさせる時間を大切に」
オリザさんとの対話を通じて、「非認知教育」を難しく考えてしまっていた自分に気づかされました。子どもが「楽しい!おもしろい!どうして?」といった、好奇心で満たされる自然状態を壊さないように見守りたいと思いました。そして、自分自身の「楽しい!おもしろい!」も大切にして日々過ごしていきたいです。(神長)
1962年、東京都生まれ。劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰。芸術文化観光専門職大学学長。江原河畔劇場芸術総監督。国際基督教大学教養学部人文科学科卒業。現代口語演劇を提唱し、1994年初演の『東京ノート』で翌年第39回岸田國士戯曲賞を受賞。1998年『月の岬』で第5回読売演劇大賞優秀演出家賞、最優秀作品賞を受賞。『上野動物園再々々襲撃』(2002)で第9回読売演劇大賞優秀作品賞、『その河をこえて、五月』(2002)で第2回朝日舞台芸術賞グランプリ、ほか受賞多数。2019年、『日本文学盛衰史』(原作:高橋源一郎)で第22回鶴屋南北戯曲賞を受賞。2011年フランス文化通信省より芸術文化勲章シュヴァリエを受勲。主著に『わかりあえないことから』『現代口語演劇のために』『演劇のことば』など。小説に『幕が上がる』(2015年映画化)。
博報堂こそだて家族研究所は、子育てに正解はなく選択肢が無数にあるこの時代に「こそだて家族」のこれからの姿を研究・調査・情報発信を行うプロジェクトです。現役のパパママ世代が中心となり、クリエイター、ストラテジックプラナー、PRプラナー、メディアプラナーなど、多様なスキルを持つスタッフが所属しています。「小学生の子を持つファミリー」を中心としながら、マタニティから大学生の子を持つファミリーまで幅広いこそだて家族を対象としたマーケティング&コミュニケーションの専門家として、新しい視点や考え方の提案を行っています。
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