中邑:去年の8月に、「おい、サイバスロンとアウシュビッツに行こうと思うんだけど、行く?」と言ったら、子どもたちが「行く行く行く」と。「お前ら、サイバスロンって何か知ってるのか?」「知らない」「知らないとこへ行くと恐ろしいことになるかもしれないよ」「でも、中邑さんが言うならおもしろいところじゃないの。調べるよ」って。でも、いまの子って、そうじゃないんですよね。中高生に言ったとしたら、「どこですか?」「何のために行くんですか?」って聞きますよ。そして大概言うのは、「いつ行くか言ってもらわないと、試験の予定があるからわかりません」とか言う(笑)。
根本:そういった旅行先は、先生が行きたいところへみんな一緒に遊びに行くという感覚ですか?
中邑:いやいや。遊びには行かせません。子どもたちの行きたいところにも行かせません。行きたいところは自分で行けばいい。教育というのは、やりたくないことをいかに面白くやらせるかということだと僕は思っているんですね。子どもたちがやりたいことを僕たちがやってやると、目的を設定しちゃうじゃないですか? 「ここに行ったら、これを見てこれを学ばなければいけない」と。それが一番つまらない教育。「やりたいことは自分で勝手にやれよ、お前。その代わり、やりたくないことでおもしろいことを教えておいてやる」っていう教育です。
サイバスロンとアウシュビッツを、彼らは調べてくるんですね。「アウシュビッツとサイバスロン、全然関係ないじゃない。また思いつきで考えたんだろ」って言ってくる。「その関係性を考えるのがお前らの旅だ」って言って連れて行くわけですよ。楽しいでしょ?
根本:子どもたちは行きたくないけれど、行くといいんじゃないかなと先生が思うところを、どうやって見つけるのでしょうか。
中邑:僕の興味だけです。子どものことなんて、全く考えていません。要は、普段からおもしろいことを一緒にやっていると、みんな行きたくなるじゃないですか。「ヘンなおじさんと行ったらおもしろいかな」と。僕は、計画だって出しませんからね。子どもが言うんですよ、「いつ行くんだよ?」「何日に成田に来い」と言うと、「だって学校だったら栞があるぜ」「お前、学校嫌いなんだろ?」って(笑)。そうやって、からかいながら育てていくんです。
その旅で、僕が最終的に何を教えたかったかっていうと、優生思想なんです。アウシュビッツっていうのは、要するに優秀な人達が結婚すれば優秀な子どもたちが生まれて優秀な国ができるっていうことじゃないですか。サイバスロンについてもそうですよね。早く走れたほうがいいという基準のなかにある。僕らは、アウシュビッツだけじゃなくて、障がい者の虐殺が行われたハダマー精神科病院にも行っているんですよ。
計算が早くできたほうがいい、何かできたほうがいいという、みんなの心の中にそういう思想がある。いまの日本ではどうだろう、考えてみようよと。こんなこと、学校じゃ教えてくれないです。暇だからいいんですよ。一週間こんな話をしながら、喧嘩しながら旅できるんですから。
根本:大人の側も時間をかけるということなんですね…。自分の子どもですら難しいのに…。
中邑:時間はね、かけられない世の中になったから。別に、親がかけなくてもいいと僕は思っているんです。社会がかけないといけないですよね。
根本:先生が日常的に接しておられるお子さんたちの年齢層はどのくらいの幅があるんですか?
中邑:幅は無いと言ってもいいですね。相談があれば、みんなどうぞって言うんです。大人でもいいんですよ。実は、こういうプロジェクトを始めたのは、大人の人との付き合いからなんです。働けない大人がいっぱいいて、その訳は、子どものときに痛めつけられたトラウマがすごくあって尾を引いているんですよね。だから、傷を残さない子どもを育てる教育を考えようよっていう。
そして、教育っていうのは現在しか見ないじゃないですか。でも、現在ではなく将来を見なくちゃいけない。将来とは何かというと、子どもの将来だけじゃなくて、社会の将来も予測していかなくてはいけない。そういうことを考えながらつきあっているとも言えます。
未来を考えると、やっぱりAIというものが僕はすごく恐ろしい。IoTもすごく恐ろしいと思っているんですよ。それって、人がいらなくなるということじゃないですか。医者や弁護士も例外とは言えない。でも、そんな時代でも、「勉強して医学部へ行く」と言えば一同に「素晴らしい!」と言う。コンピューターが自動化していることを超えるような人間の作業を持てる人は今後少ないと思いますね。
根本:そういうことを考えたとき、先生がおやりになっている「異才発掘」、私は多様なユニークネスの発見というふうに解釈しているんですけれど、そのユニークさの発見の仕方って、やっぱりすごく難しくて誰にでもできるわけでもないし、できないっていうことへの葛藤をみんな抱いていると思うんですね。そのあたりを先生から学びたいなと思うのですが。
中邑:子どものユニークネスを見つけるのは、放っておけばいいんですよ。例えば、夜10時になっても子どもが何かに夢中になっていたら、大概の親は「明日学校があるから寝なさい」と言う。それを言わない。「がんばってー。先に寝るからねー」って、寝ちゃえばいいんですよ。変態少年は朝までそれをやっていますから。「うわ、すげえな、うちの子の集中力って。これが好きなんだ」とわかるわけです。なんかやっていたら、とにかく放っておいたらいいんですよ。
中邑:自分の子どもが他の子どもと同じことをできなくなっても、子どもを育てている人が「俺、ダメなんだ」と思わなくてもいいような社会にしなくてはいけない。そのためには、親御さんも安心させてあげないといけない。僕はね、今みんな子育てで同じ方向を向いていると思うんです。子育てなんかもっと多様でいいと思うんだけれど。
根本:どうしてもマニュアルに頼っちゃうというか、気になりますよね。ネットで調べると、またそういう記事がどんどん出てきちゃいますから。
中邑:僕らの教育については、既存の学校教育の否定ではないし、全く別の柱として考えていただければいいと思います。先生たちも、本当はやりたいことがあると思うんだけれど、法を遵守しなければならないから。
人間にはタイプがあるんですよ。もっとね、タイプを重視しようじゃないかと。勉強が得意な子もいれば、苦手な子もいる。たくさんの人と仲良くするのが好きな子もいれば、一人静かにやりたい子もいる。向いてないのに、みんな大学に行ったほうがいいっていう社会をつくっていることが問題なんです。僕たちは新しいカリキュラムをつくっているんですよ、「お前に勉強は向かない」っていう。教材の制作も進めています。
根本:次世代の子どもたちについて、好きなことを早く発見してあげて伸ばしてっていうやり方に切り替えていく必要があるとき、親自身の育ち方ゆえに切り替えがなかなか難しいというか。自分の子どもは可能性がいつまでも残っていたほうがいいんじゃないかなと思ったりしてしまいがちかなと。
中邑:親も強烈な体験がいると思うんだ。
根本:あ、そうかもしれません。でも、それって何なんだろう…。
中邑:なんだっていいんですよ。親に好きなことがあればいいんです。これから、AI時代に必要なのは好きなことがあること。その好きなことを、子どもと笑って楽しめばいい。もうそれだけでいい。
根本:子どもの都合を考えずに、親が好きなことを?。
中邑:そうです。普段から楽しいことを一緒にやっておくといいんですよ。子育ての一番大きなミスは何かというと「今日、どこ行こうか?」って子どもに聞きません?
根本:聞きます。
中邑:そこには、実は親の意図があるんですね。そうであるなら、親は意図を明確にしてコミュニケーションをするべきですよ。「俺はこう思うんだ。こう生きているんだ。俺はこれが大事だと思う。お前はどう思う?」って。それを押し付けなければいいんです。子どもの自主性なんか関係ない。子どもは放っておいても自主性がある。親も自主性がある。それをお互い尊重し合うっていうことをやっていかなきゃならない。何でもかんでもやってやろうとするから子どもが依存的になる。放っておいたらいいんですよ。
根本:放っておくことの難しさも、今日、すごく理解しました。
中邑:実は、うちに来るトラブルを抱えている子は、だいたい夫婦共に調整能力がないんですよ。子どもは勉強して大学に行くべきだ、だから子どもを頑張らせるべきだと両親共に思っていて、「これでいいのかな?」という会話もなくどんどん子どもにプレッシャーをかけている。または、お父さんとお母さんが全く反対を向いている。「お父さんは無責任だ」「お前はやりすぎだ」って喧嘩になっている。そうすると母親は孤立していく。
一番いいのは、役割を分けること。「こうした方がいいよね」とやっぱり強く言わなきゃいけないけれど、後で落ち込むから一方がフォローする。芝居なんですよ、子育てなんて。一人の人間がそれやると、自己矛盾して子どもに批判される。「あるときはこう言って、別のときはこう言う」と。
根本:子どもは混乱しますよね。
中邑:つまり、一人ではできない。夫婦で子育てする意味はそこにあるんです。それぞれが違う役割を担うということです。生徒指導のガミガミ言う恐ろしい先生がいるっていうことには意味がある。けれども、その先生と担任の先生が口裏を合わせていなきゃいけない。役割分担をすればいいということです。それが批判し合うからダメなんです。学校はこうだとか親はこうだとか。
根本:ただ、夫婦のあいだもそうですし、家庭と学校のすり合わせとか学校と地域のすり合わせとか、だんだん難しくなってきていますよね。そういう状況で子育てにおけるネットワーキング領域はすべきことが沢山ありそうだなと思います。
中邑:ROCKETの子どもたちは、一昨年と昨年は十数名だったのですが今年は35名ほどいて、その子らは僕らが手厚くサポートする子ということで選んでいます。卒業の期限はない。「卒業するときは、お前らが俺らを見捨てるときだ」と言っています。彼らは月に一回くらいやって来るのですが、それ以外に、自由にROCKETの施設を利用できるとか、相談できる等の権利を与えている子どもたちがいて、全部合わせると300名くらいいます。あとは、我々が直接相談を受けた引きこもりの子どもたちは、ここで手伝いをしたりということをやっています。本当は、ROCKETそのものだけではなく、ROCKETに来る途中でお店のおじさんに声をかけられてちょっと手伝いをしたとか、社会と連動した広がりのある場をつくりたいんですよね。そういうことをしながら、子どもがちょっと傷をいやして帰っていくとか、自信をつけて帰っていくとか、そういうかたちが理想だと思っています。
根本:今日は本当に、刺激を多くいただきました。ありがとうございました。
□第9回 / こそだてと社会の変化(前編)
□第8回 / 生活者のための食と医療(後編)
□第8回 / 生活者のための食と医療(前編)
□第7回 / 落語に見る日本発想
□第6回 / 変わりつつある地域活性化
□第5回 / モノの未来とプロダクトデザイン
□第4回 / データとクリエイティブ
□第3回 / 生活基点で見る働き方
□第2回 / ソロ男に見る男と女の生き方
□第1回 / 暮らしとエネルギー