4回目に登場するのは、新潟博報堂の岩城由香。2004年の新潟県中越地震、2007年の新潟県中越沖地震という2つの震災の復興業務を通して考えたこと、地域の未来に対して抱く想いなどについて聞きました。
1995年、それまで勤めていた新潟県内の印刷会社を退職し、博報堂新潟支社(現・新潟博報堂)に入社しました。当時の上司は「とにかくいろいろ任せてみる」という方針で(笑)。前職で営業経験があったことから、営業アシスタントという形で、必死ながらも非常に自由にやらせていただきました。その後、国土交通省北陸地方整備局の外郭団体である社団法人に1年間出向しました。99年~2000年くらいの時期でしたが、当時は行政における広報活動のニーズが高まり、広告会社が持つノウハウが非常に求められ始めた頃。そんなタイミングに1年間出向し、資料館の仕事や、研究会の立ち上げから、合意形成するためにどう動いたらよいかという、広報活動の根幹的な部分での仕事などを体験しました。それから育児休暇を経て2004年に新潟博報堂に復帰。会社としても、博報堂本体から分社化し、新しいスタートを切ったばかりの頃でした。
育休から仕事復帰してまもなく発生したのが、2004年10月の新潟県中越地震です。関連死を含め68名の方が犠牲になり、土砂崩れに巻き込まれた車の中から2歳の子が92時間ぶりに救助されたことも大きなニュースとなりました。子を持つ親として、「幼い子どもを抱えて災害に巻き込まれたらどうすればいいのか」という問いに直面させられましたし、ご家族や友人を亡くされた方、心身ともに傷を負った方々に対して、いま自分にできることは何かを真剣に考えさせられた出来事でした。そんななか得意先から、全村避難をした山古志村(当時)の復興ビジョンを考える研究会の手伝いをしないかというお話をいただきます。被災地でボランティアをすることも自分にできることの一つとしてあったと思いますが、「博報堂にいる今の私」だからこそできることとして、これはやるしかないと思いました。国や県、地域住民の方、また学術機関の先生方などさまざまな立場の人のさまざまな意見を聞きながら、より多くの方の同意を得られ、そしていい方向に進む方法は何かを精査しながら、再興のためのビジョンをまとめていきました。その成果の一部として山古志には「おらたる」、小千谷に「そなえ館」、川口に「きずな館」、長岡市内に「きおくみらい」という震災のメモリアル施設の開設を新潟博報堂チーム全体でお手伝いしました。いまも震災の記憶を継承する場として、防災教育や地域住民の交流の場として、さまざまな形で活用いただいています。
その後、震災からの復興を全国に発信することを目指した新潟国体の基本計画・実施計画(2009年式典開催)や、新潟県中越地震の合同追悼式に関する業務に携わっていたさなかの2007年7月、今度は柏崎市を中心とした新潟県中越沖地震が発生します。夏の観光シーズンを控え、地震による風評被害は深刻な問題でした。そこで、発災から1週間後には緊急風評被害払しょくPRを提案。全国紙の全面広告、都内PRイベント、近隣県メディアキャラバンなどを実施しました。その後も秋、冬とさまざまな業務をお手伝いさせていただくなか、2008年に柏崎市から1周年の合同追悼式の話をいただき、2015年には中越沖地震メモリアル展示の制作、そして今年、10周年合同追悼式を終えたところです。
これまで震災からの復興にまつわるさまざまな業務に携わってきましたが、国、県、市のどのご担当者さまからも、“傷ついた地域を再生させ、そこで生きる人たちの力になり、復興を成し遂げたい”という強い想いを感じてきました。そうした想いを、具体的な言葉やクリエイティブに置き換え、伝わるための装置に乗せ、生活者に届ける方法を提案し実行できることは、広告会社である博報堂グループならではの強みだと思います。
行政の仕事に関わり始めたころは、「説明責任」や「合意形成」の重要性が叫ばれたころ。合意形成を図るためには「納得」を得るためのプロセスをおろそかにしてはいけない。そう学びました。さまざまなステークホルダーの話を聞き、ときには翻訳者となってステークホルダー同士の懸け橋となる。そういうコミュニケーションをひたすら積み重ねることで、さまざまなプロジェクトを進行させることができました。こうした“翻訳力”も、博報堂の中で広告の仕事にとらわれず、自由に仕事をさせてもらってきたことがベースとなっている気がします。
新潟博報堂が地域に根差し地域をリードしていく企業となっていくためには、従来の広告ビジネスの枠を超えた発想力や提案力が必要だと考えます。その際、得意先が一般企業であっても、行政であっても、私たちがやるべきことは基本的には同じであり、「話を聞いて真の課題を探る(または見つける)」こと。その課題は、ときには外部の人間が解決できるものではなかったりもしますが、それでもパートナーとして得意先に寄り添い一緒に考えることで、解決の糸口が見つかることもあるのではないでしょうか。そして、試行錯誤の中から生まれた価値や、伝えなければならない情報を世の中に伝える際に必要なコミュニケーション力は、広告会社にこそ求められている役割なのではないかと考えています。
私自身、二つの震災の経験から復興に関わる業務はライフワークとして取り組んできました。そうした仕事は、博報堂本社、グループ会社、協力会社、媒体社、そして得意先が、ひとつのチームになって「新潟を復興させよう」という地域への想い、目的を共有できたからこそ可能だったとも思います。
これからも、得意先やスタッフと同じ想い、同じ目的に向かってチームになることができるような仕事を、続けて行けたらと考えています。
また、母として、自分の子どもを通して地域や学校という新しい関係性の中で、新しい地域の課題や魅力に気づくこともあります。新潟は、食べ物や自然も豊かで、適度に都会で適度に田舎で……。生活環境として、また子育てするにしても、とても適した土地柄だと思います。一方で着実に人口減少は進んでいますし、ほかの都道府県と比べてもあまりPR上手とは言えない部分も(笑)。新潟の良さをいろんな人に知っていただきたいし、新潟に住んでいることに誇りが持てるような地域になっていってほしい。子どもたちが大人になったときに、住み続けたい新潟であるために、広告会社として、また母の立場で地域と関わりながら、さまざまな業務にこれからもチャレンジしていけたらと考えています。
1995年から博報堂新潟支社(現・新潟博報堂)で勤務。営業アシスタントを経て、県内企業の他、官公庁を担当。資料館等展示施設整備、行政広報を多数手がける。出産と1年間の育休を経て営業に復帰。行幸啓、震災復興関連業務のほか、県内企業の広報に携わる。
■チイキノベーション! バックナンバー
VOL.3 東北に選ばれ、東北を動かす仕事を目指したい(東北博報堂 佐藤雄一)
VOL.2 中国四国を舞台にクリエイティブな地域ネットワークを構築(中国四国博報堂 我那覇健一)
VOL.1 広告会社だからできる。未来のための地域づくり(地域創生ビジネス推進室 山口綱士)