東京都心の北東部。神田、湯島、谷根千(谷中、根津、千駄木)、本郷、上野、神保町、秋葉原。
このエリアは、幕末以降の近代日本が培ってきた多様な文化資源が残る日本最大の集積地として知られています。例えば、神田は神田祭をはじめ江戸の伝統を引き継ぐ「町人文化」の町。谷根千(谷中、根津、千駄木)は町屋や路地の街並みが残る「生活文化」の町。上野は博物館や美術館、東京藝術大学などが集まる「芸術文化」の町。神保町は書店街と出版社が軒を連ねる「出版文化」の町であり、多くの大学がこの街から生まれています。そして、神保町から広がった秋葉原の「ポップカルチャー」は世界を魅了してきました。
近年、このエリアを「東京文化資源区」と呼び、こうした東京の豊かな「文化資源」の視点から、都市の魅力や価値を検証し、2020年以降に向けた新しい都市生活像と都市政策を構想しようという多様な取り組みが、「東京文化資源会議」という民産官学連携によるプロジェクトのもとで生まれています。
2016年からスタートした「トーキョートラムタウン(TTT)」もそのひとつ。「スローな交通手段とシステム」の導入によって東京文化資源区全体をめぐる新しい回遊ルートを整備し、東京の新たな生活文化圏を構想しようというプロジェクトです。
「もし東京都心部をつなぐトラム(路面電車)が復活すると、この街の暮らしはどう変わるだろう?」
「トーキョートラムタウン(TTT)」プロジェクトリーダーを務める、東京都市大学・都市生活学部の中島伸先生と一緒に、東京のこれからの生活圏についての構想を話し合います。
鷲尾:
最近またこのエリアによく出掛けるようになって、先日もゆっくり歩いてみたんですが、思っていた以上にそれぞれの街が近いですよね。かつては森鴎外も毎日この東京文化資源区の中を散歩してまわることを日課にしていたそうですね。
中島:
そうなんです。湯島天神あたりを中心にすると、ほぼ半径2キロくらい。そもそも「東京文化資源区」ってエリアは徒歩圏なんですよね。トラムっていってるけど、実はまずなにより人が「歩くための街」というのがベースにあります。
鷲尾:
普段は地下鉄での移動が多いから、なかなかそんな感覚を覚えにくいですね。東京駅から地下に潜ってしまうと方向感覚が全くわからなくなるって、海外から来る友人たちがよくそんな風に話していたのを思いだしました。
中島:
鉄道、バス、地下鉄。確かに東京は公共交通機関が発達していてとても便利なんですが、点から点への移動では見落としてしまうものってやっぱりありますね。「トーキョートラムタウン」には「タウン」って言葉が入ってますが、それはもう一度、人とモビリティと街との関係を見つめ直そうという発想からなんです。歩くことに近い、スローなモビリティで、東京文化資源区全体をゆっくり回遊するようなルートがもし出来たとしたら、そこにどんな生活圏が生まれるだろう。どんな暮らしの営みや、新しい経済や文化が生まれるだろう。そんなことをこのプロジェクトを通して考えてみたいと思っています。
鷲尾:
僕たちはモビリティっていうと、移動手段、しかも効率的に目的地に早く移動するための手段として捉えてしまいがちだけど、必ずしもそれだけではないんですよね。街を楽しむ「媒介」にもなれる。
中島:
だから、地下鉄やバス、あるいは自動車とか他の交通機関とどっちが便利か、どっちが効率的かってことを競おうとしているわけではないんです。別にトラムが走らなくても東京は十分に便利かもしれない。でもその利便性だけではない価値が東京にはあると思うんです。点と点を結んでいくことで線ができ、そして線をぐるりと回すと面や圏になる。そんな視点で街の魅力を掘り起こす役割が、トラムのようなスローモビリティにはあるように思います。
鷲尾:
僕はこの10年間ほど、オーストリアのある地方都市と縁があって、1年に何度も仕事で通っていました。
人口が20万人くらいの典型的な欧州の「コンパクトシティ」です。この街にもトラムが走っています。トラムって都市の景観としてもちょっと独自の存在感がありますよね。市街地の中央通りを歩いていると、ゆっくりと向こうからトラムやってきて、そのまま乗り込んで移動する。スピードも中心市街地だとゆっくりだし、なんだか歩くことの延長として繋がっていくような感覚を覚えます。道路上の軌道を走るので、トラムが走り去るとまた日常の風景に戻っていく。つまり、風景を壊さないのもいい。
中島:
去年、子どもを連れてコペンハーゲンへ行ったんですが、ベビーカーを持って移動している人に対するコペンハーゲン市民の反応速度のよさに感動しました。子供を連れて公共交通に乗ろうとすると、周りがワーッて立ち上がって、「こっち空いてるよ」「ほら手貸すよ」って、とても自然にさっと人が反応してくれる。この反応速度の速さは、今の東京にはないんですね。東京の乗降客の密度では、個々人がスマートに動くことが最適であるように求められてしまうからだと思います。別に日本人の国民性が良いとか悪いとかそういうことでなくて、要するに、モビリティってもしかすると移動手段というよりも、その街の生活スタイルをつくる大きな要因かもしれないなって思ったんです。歩くこと、歩くことの延長としてゆっくり動いて街の風景を壊さないトラムのようなモビリティが走っていることって、その都市の人々の生活スタイルに無意識にも影響しているんじゃないかなって。
鷲尾:
モビリティは、もちろん人や物資の移動を助けたり、都市の中の様々なリソースをつなげたりすることで、都市での暮らしをよりよくしていくとても大切な機能だと思いますが、暮らしの質を左右する役割もあるんですよね。そのことはもう少し意識していく必要があるかもしれませんね。
中島:
もし、この東京文化資源区といわれる都心北部エリアをトラムが走ると、何かそういう生活スタイルや、もっといえば人と人との関係性においても変化が起こるかもしれない。だから、このプロジェクトの目的は、新しいモビリティのデザインはなく、新しい都市生活像・都市文化のデザインなんだと思っています。やっぱり「人はロジスティックスではない」と思うし。
鷲尾:
「トーキョートラムタウン」は、2016年にスタートしました。もともとは「東京文化資源会議」の幹事長である東京大学の吉見俊哉先生が基本構想を描かれていて、中島先生も、僕も吉見先生との出会いを通して、このプロジェクトに参加することになりました。
中島:
当初から、鷲尾さんや博報堂の若手メンバーも「トーキョートラムタウン」の中心メンバーとしてスタート時から加わって頂き、本当に有意義なディスカッションをしてこられたと思っています。
鷲尾:
大学の研究者や建築家、企業、金融機関、出版社、地元の人たち、このエリアの可能性に魅力を感じているいろんな立場の人たちが主体的に参加してくださっているので、普段の仕事とは違って僕たちもとても刺激的です。
中島:
先日行った公開イベントでは、集まった多くの方々に、1年間のディスカッションの成果として「トーキョートラムタウン」構想をお話させていただきましたが、その後のラウンドテーブルではとても建設的な意見が交わされて、プロジェクトへの関心の高さを実感することができました。新しい仲間が増えたって感じです。
鷲尾:
中島先生からは、「都市のスピードを落とす」。そして「インナー東京の実体化」という大きく2つの「トーキョートラムタウン」構想を話していただきました。あらためて、どちらもチャレンジャブルなヴィジョンだなあって感じますね。
中島:
ひとつめの「都市のスピードを落とす」という提案ですが、人の移動の選択肢を多様にし、誰もが安心して「歩ける街」に変わろうという提案です。決して車や電車に対抗しようとか、交通機関同士の競争という視点ではなく、人の移動を中心にもモビリティと街とを見直すという提案です。トラムはいわばそのための触媒であり、価値転換の象徴ともいえる。
東京では、1960年代後半から70年代前半にかけて都電路線が撤去され、1970年の道路構造令の改定で「緩速車道」が廃止されます。1964年のオリンピックを契機に、まさに「速く、高く、遠く」で、「速さ・大量輸送・効率性」を重視した、車中心の社会に変わっていきました。都市もそれを前提としてつくられてきた。前回のオリンピックで上げた都市の“速度”をもう一度落とすことで、何が起きるか。キーワードは、「時速60kmの街から、時速10kmの街へ」です。
鷲尾:
これは、ドイツのストラスブールのモビリティ調査をしていた先輩から聞いた話です。ある人が毎朝、トラムで仕事に通っていて、車窓越しに街を眺めていると、ときどきカフェで働いている店員と目があう。一度も立ち寄ったことのないカフェなんだけど、なんだか馴染みの店のように感じられて、ある時、停留所でふっと降りて覗いてみると、店員の方もその人の顔をよく覚えていたという話。都市のスピードが変わるというのは、そういうことが起こるということですよね。僕、その話にちょっと感動したんです。
中島:
その街のことがよく見えてくるようになるわけですね。今日は店先のお花が変わったな、とか。ヨーロッパだと、トラムは時速10~15キロぐらいで、ファサードに近いところを移動するわけですしね。街を移動するスピードが変わると、その人の中に、その街の生活や暮らしがよりヴィヴィッドに可視化されていくんですよね。
鷲尾:
そうすると、そこには愛着というか。街とのつながりの感覚を取り戻すような効果もあるかもしれない。
中島:
都市の中のコミュニケーションの密度が上がるということだ思うんですね。そして、人と街の関係や、お店のファサードや風景が変わる。これから一日24時間の中で、どんな「質」の時間を持つか、つくりだすか、提供できるかか、ということはデマンドサイドも、サプライサイドでもとても大切になってくると思います。なおのこと、スローな時間が確保できるということは、ある種の価値を創出し、経済的な便益も生まれる可能性がありますよ。
鷲尾:
それはその都市自体の「質」や「格」をも決めてしまうでしょうね。60年代以降、高度経済成長期から現在までの半世紀は、そんなこと言ってられないっていうことで都市や街並みががつくられてきた。でも人口減少していく社会の中では、それは過剰になるし、発想を転換せざるを得ないと思います。
中島:
もうひとつは、「インナー東京の実体化」という構想です。トラムの軌道が、いわばインナーリングとなって、ヒト・コト・モノがつながり、今までとは異なる生活文化の単位と、エリア完結型の新しい生活スタイル、まさに生活文化圏が浮かび上がってくる可能性がある。トラムがきっかけとなって、これまでの東京のライフスタイルとは異なる新しい生活時間を持った独自の生活圏をつくりだすかもしれない。
鷲尾:
トラムだから、別に壁や境界をつくるわけじゃないですしね。人のつながりが浮かび上がらせる新しい生活圏ですね。人が活動しやすい規模って確かにある気がします。それは極めて身体感覚に正直なところで。
中島:
規模でいうと、人口20〜30万人規模くらいになると思います。さきほどのオーストリアの街と同じくらいの規模ですね。やっぱりこれくらいがちょうどいいんですよね。人々の距離が、暮らしと働くことが、丁度良い距離間にあって、しかも暮らしの中に密度がある。そんな生活圏です。ミクロか、マクロかとか、グローバルかローカルかとか、そういう単純な2元論で終わらさないことって重要だと思うんです。規模と効率、スピードを追求する世界都市・東京でも、小さな界隈の集合体でもない、いわばメゾスケールのエリアであり、新しい生活圏の単位ですね。
鷲尾:
これからの最大の課題は、やはり「人口減少」にあると思います。東京もやはりこの課題からは逃げ切れない。しばらくは東京一極集中が進むといわれていますが、それでも今のままでは、地方都市から少し遅れて東京も人口が減り始める。今東京は地方から人材をブラックホールのように吸い上げてきているけど、その供給源が弱っていくわけですよね。今後の都市や生活圏を持続可能とするモビリティのシステムってどうなるんだろうということを再考することは、今とても重要なテーマだと思います。例えば、人口減少社会における都市構造として、「コンパクトシティ&ネットワーク」という発想が提唱されているわけですが、これは単に規模の縮退化と効率化という視点だけでなく、人がいかに活動しやすいかを支えていく都市構造への転換という意味なんだと思います。
中島:
トラムができてもできなくても、東京全体の動きは今後も変わらないと思うんですね。新宿はたぶんトラムができても、相変わらず毎日300万人の人が行き交う巨大なターミナルという状況は変わらないでしょう。だけど、トラムが結んで「インナー東京」という新しい生活圏が、大きな東京の中に組み込まれることで、この生活圏で暮らしている人たちの生活の密度だったり、暮らし方や価値観とかが変わっていくということが起きるんじゃないかと思う。
鷲尾:
モビリティは単に移動速度を変えるだけでなく、価値観を転換させる触媒になり得るかもしれない。僕ら自身が生活圏の中で生きている実感をも変えていくかもしれない。
中島:
すくなくとも「速く・高く・遠く」っていう成長期のあり方は変わってこざるをえない。「ゆっくり、近く」を繋ぐようなモビリティの可能性は、この東京においても決して非現実的な話ではないと思うんです。
そして、その先には、東京の都心部でもう一回居住する「職住一体型」の生活が蘇っていくんじゃないかと思ったりしているんです。東京のど真ん中で、ちゃんと働きながら暮らせる。そういう生活スタイルってあり得るんじゃないかなって。そもそも、神田や神保町って、そういう街だったんですよね。もともとそういう商業文化があったエリアです。
神田や神保町のような商業文化に根ざした街の暮らし方を見ていると、毎日いろんな場面で、日々細かいコミュニケーションを近隣の中でとりあっている。朝ちょっとあそこで会って何か話して、夕方またすれ違って「今日はどうだった」とか、やっぱりあるわけです。密度の濃いコミュニケーションがあるわけですよね。これは通勤に遠方からこうやって来ているライフスタイルでは絶対できなくて、そういうことが都市の速度を落とす中で可能になってくるのだろうなと思っています。神田もそんな暮らし方が空洞化してしまった時期があって、今もう一度見直そうという動きも住民の中で生まれ始めていますよ。
東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修了、博士(工学)。専門は、都市デザイン、都市計画史、都市形成史、景観まちづくり。中野区政策研究機構研究員、(公財)練馬区環境まちづくり公社練馬まちづくりセンター専門研究員、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻助教を経て、現職。日本都市計画学会論文奨励賞、日本不動産学会湯浅賞(研究奨励賞)博士論文部門受賞。著書:『商売は地域とともに神田百年企業の足跡』(東京堂出版・2017)、『図説都市空間の構想力』(学芸出版社・2015)、『アーバンデザインセンター 開かれたまちづくりの場』(理工図書・2012)等。
文化芸術と科学技術領域に関する専門性を生かし、戦略プランニング、クリエイティブ・ディレクション、文化政策等の領域で、様々な地方自治体や産業界とのプロジェクトに従事。2014年にアルスエレクトロニカと博報堂との共同プロジェクトを立ち上げプロジェクトリーダーを務める。プリ・アルスエレクトロニカ賞審査員(2014~2015年)。主な著書に『共感ブランディング』(講談社)、『アルスエレクトロニカの挑戦〜なぜオーストリアの地方都市で行われるアートフェスティバルに、世界中から人々が集まるのか』(学芸出版社)等。