私が選んだ一冊は、オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』です。
『弓と禅』は、ドイツ人の哲学者オイゲン・ヘリゲルが、弓道を通じて日本の精神性に近づいていくプロセスを記したドキュメンタリーです。もともと射撃の経験があった筆者は腕にも多少自信があり、哲学者なのでものを深く理解することも得意。それなのにまったく上達せず、弓を引くことさえままならない。本当に苦労するんです。その修練の中で、西洋的と言える構築的な哲学から、言語化されない領域の日本文化そのものを身につけていく。非常にドラマティックな展開も含めて描かれていて、ストーリーとしてとても楽しめる一冊です。
この本と出会ったのは14〜15年前、仕事でいうと茶系飲料の仕事をはじめた頃で、同時に日本の自動車メーカーも手がけていました。まさにグローバリゼーションが声高に訴えられていた時代です。日本の社会全体としては、ある種外圧的にグローバリゼーションが持ち込まれたことへの反動で、日本回帰の意識が芽生えた頃だったように思います。僕もそれまで、取り立てて日本文化に興味があったわけではないのですが、自動車の仕事のようにグローバリゼーションをダイレクトに受け取る仕事と、お茶の仕事のように日本的な文化をどうモダナイズするかという仕事のふたつの方向性の中で、急速に日本文化に関心が高まった時期でした。
岡倉天心の『茶の本』や世阿弥の『風姿花伝』など、日本の文化性が描かれている一連の作品も読んでみましたが、中でも印象深く、確かに日本文化の本質はこういうところにあるなと思ったのがこの作品。何か直接的なヒントを得ようと思って本を読むことはありませんが、ものを考えるときの自分のよりどころというか、立っている地面を作るというようなことに役立っています。
本の中で、何事も論理的に解釈しようとするヘリゲルに、弓の師匠は根気強く「有心と無心」の心構えを伝えます。これは、デザインの仕事で言うと、意識的なことと無意識的なこと、外と中といった2つの要素を統合的に考える方法論に繋がっているかもしれません。先端の脳科学でも、デフォルト・モード・ネットワークといって、すごく集中して意識を向けているときより、むしろ、ある種ぼーっとしているときのほうが脳が活性化して、判断や発想をしやすい場合もあるといわれているようですし、西洋的にロジカルに組みあげることだけが唯一の方法ではなく、違う行動の仕方もあるのだ、ということをメッセージしているようにも思えるのです。
もうひとつ、この本を通して感じたのは、行間から滲み出る著者のヘリゲルの日本文化に対するリスペクト。これを読むと、日本って悪くない国なんじゃないか、とちょっと誇らしい気持ちになれるんです。僕は、日本の行動様式とか精神構造みたいなものをもっと世界に発信していくべきだと思っています。例えば、先のサッカーのワールドカップでも、日本戦の後みんなで掃除をしたということが話題になりましたが、そういうことって素敵だなと思うんです。
江戸時代の農家の人は、田んぼまでのあぜ道を石一つない素足で歩ける状態にしていたそう。自分の家の中だけではなく、仕事をするところのプロセスまで含めて美しく清潔にしておくという精神性ですよね。今でいうと整列して電車を待つとか、交通インフラの時間がきちんと守られているとか。僕たちが自然にやっていることも、外国から見たらクレイジーだとか言われますが、そういう日本人の中に無意識的にある清らかさ、律義さ、まじめさなどの精神性も日本の大きな資産だと思います。そのような文化性や価値観を発信することは、世界にとっても意味があることなんじゃないかと思います。
1985年多摩美術大学美術学部卒業後、博報堂に入社。2003年、デザインによるブランディングの会社HAKUHODO DESIGNを設立。様々な企業・商品や行政施策のブランディング、VIデザイン、プロジェクトデザインを手掛けている。医療・ヘルスケアや地方創生などソーシャル領域での活動も多い。2015年から東京都「東京ブランド」クリエイティブディレクター、2015年から2017年までグッドデザイン賞審査委員長を務める。
クリエイター・オブ・ザ・イヤー、ADC賞グランプリ、毎日デザイン賞など国内外受賞歴多数。著書・共著書に『幸せに向かうデザイン』、『エネルギー問題に効くデザイン』、『経営はデザインそのものである』、『博報堂デザインのブランディング』など。