小野:今日はできあがった『広告』のご感想と、取材時にまだまだ話し足りなかった部分をお聞きしたいと思っています。リニューアル創刊号、いかがでしたか? ちょっと聞くのが怖い気もしますが(笑)。
松村:変わっていますよね(笑)。右ページにしか文章が載ってないし、一般的な雑誌の作法を無視してつくられている。最初は「読みにく!」と思ったんです。でも今日ここにくる新幹線のなかで読んでいたらすごく読みやすいんですよ。テキストが片ページだけだからふたつ折りにしてページがめくれるんです。ペラペラッと。これってタブレットを意識しました?
小野:そうですね。タブレットに近いA5より少し細いサイズにしてみました。
松村:普通は電子書籍が紙メディアをマネる、という方向だと思うんですが、これは紙が電子書籍をマネたな、と思ったんです。独特の読みやすさで新体験でした。
小野:ありがとうございます。中身はいかがでしたか?
松村:小野さんと私の対談記事のすぐあとに、私が話した内容とは違う視点の記事があったり、ビジネスの最前線もあれば、歴史を遡ったり、まるで“価値の探り合い”のような構成になっていますよね。雑誌としてどう収束させるんだろうと思って読み進めていくと、さらにいろいろな視点の記事がある。戸惑いもあって、まだ消化しきれていないんです。ほかの読者の方も、この雑誌を読んで「価値とはこういうことだ」と判断はできないと思うので、今日はそこを解きほぐしていければなと思います。
小野:おっしゃる通り、価値をテーマに企画を展開してはいますが、僕らはこの雑誌を「いいものをつくる、とは何か?」を思索する視点のカタログと定義しているんです。あるひとつの答えを出すのではなく、あくまで価値にまつわる様々な視点を提示していこうと。僕だけの視点というわけではなくて、僕が気になること、編集部の面々が気になることを専門家に取材したり、自ら研究して視点を見つけたり。なので、どちらかというと「そういう視点もあったのか」という気づきを得てもらうことが目的で、読んでくれた人が日々の生活のなかで価値について考える入り口になれば、と思っています。
小野:まず、文化人類学とは何なのかについて教えていただけますか? ふんわりは理解していても、はっきり説明できる人は少ないんじゃないかと思いまして。
松村:文化人類学に対する一般的なイメージって、海外の文明化されていない民族とか文化を研究する学問というものだと思うんです。たしかに、そういう時代もありました。でも、いまはそうじゃない。たとえば私はエチオピアで調査していますが、エチオピアのとある村でそこに住む人々と一緒に生活をして、彼らの営みを通して自分の生きている日本社会についても考える。異なる社会だけを研究対象にするのではなくて、自分のいる場所も含めて、多様な営みとそのずれを通して、日本社会だったり人類だったり現代だったりを研究する学問だ、ということです。
小野:僕もどこかの民族を研究して、「こういう文化がある。おもしろいよね」とするのが文化人類学だと思っていたんです。それを自分ごと化して、世の中だったり自分が所属している社会に置き換えて物事を考える学問だとは知りませんでした。
松村:1980年代ごろ、それまでの文化人類学のあり方が批判されたり、研究者のなかで自己批判が生まれたりした時期がありました。これからの文化人類学は何をすればいいのか、という混迷の時代もあって、しだいにいまお話ししたようなあり方に活路があるんじゃないか、という流れが生まれてきたんですね。
小野:僕が誌面で松村さんと対談したいと思ったきっかけは、松村さんの著書に書かれていた“構築人類学”という言葉なんです。すべての物事は構築されていて、突然そこにあらわれたのではない。いろいろな過程を経てできあがったものだからこそ、すべては再構築できる。という考え方なんですね。その視点に立って、いまある物事を批判して終わるのではなく、どうやったら再構築できるのかを考える。「構築されたものである」という考え方の先には、「じゃあ、僕らには何ができるのか」という、物事を前進させる可能性が秘められている。そういったことを松村さんは著書の『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年)の序文に書かれていて、すごく興味を持ったんです。どういう経緯で、この“構築人類学”という考えに至ったんですか?
松村:最初はほとんどノリでネーミングしました。“構築人類学”という流派があるわけではないんです。『うしろめたさの人類学』を出版したミシマ社さんのウェブ雑誌で文化人類学をテーマにした連載をしていたんですが、そのタイトルを「<構築>人類学入門」としたんですね。そうしたら、最近は、プロフィールに勝手に「構築人類学者」と書かれたりするようになって……。誰からもお墨付きをもらっていない肩書きなんですけど(笑)。
学問的な流れとしては、デヴィッド・グレーバーという素晴らしい人類学者に影響を受けています。彼が考える価値は、最初からあるものではなくて、私たちの日々の行為が何らかの形で構築することに関与したものなんですね。誰もが価値をつくる可能性を手にしているという考え方です。
小野:「物事は構築されたものである」で終わらず、松村さんがさらにその先に進もうとしたのは、何らかの反発心のようなものがあったからなのでしょうか。
松村:そこは学問的に言えば、完全に勇み足なんです(笑)。学者というのは、基本的に物事から距離を置いて批判したり、問題を提起したりするものです。このスタンスはいろんな可能性を考え続けるうえで、とても重要なんですが、でも単に批判しているだけだと、自分がどうやって世界や価値の構築に関わっていけるのかが自分自身も見えなかった。だから、あえて踏み出して考えるこをしてみました。案の定、いろんなツッコミがありましたが、そこで議論も起きていくので、勇気を出して踏み出さないことには何も始まらなかったな、と思いました。
小野:僕の場合はものをつくる人間で、つくれば必ず批判されるんですね。つくったものに対して、何らかの反応がある。いわば実践する側なんですが、実践者には学問的に一歩引いて、「何のためにこれをやっているんだっけ?」という視点を持っている人があまりいないんです。少なくとも、僕は持っていませんでした。だから、「いいものをつくるとは、何か?」という引いた視点で考えてみたかったんです。
松村さんは論理を体系立てたり、俯瞰して見る側ですよね。そのスキルを活かして実践者に近付こうとしているのが、とてもおもしろいなと思いました。僕と松村さんは全然立場が違う。でも、そういう人たちが世の中に対してアウトプットをしたり体系立てたりというのを繰り返していくことがすごく大事なんだなと。自分があまり引いた視点を持っていなかったので、とても勉強になりました。
小野:今回、雑誌の価格を税込1円にしました。価格も含めて、価値について考えてもらう入り口にしたかったからなんですが、松村さんはこの1円という価格をどう思われましたか?
松村:発売後の物語がおもしろいですよね。というのも、東京の書店にはもうほぼ在庫がないんですよね(7月29日時点)。私は岡山に住んでいるんですけれど、Amazonで売り切れた瞬間に岡山の小さい書店さんに注文が殺到したらしくて、てんやわんやで電話に出られないってヒーヒー言っていたんです。店主がひとりでやっている書店に、普段ならあり得ない量の注文が来た。そこで書店さんにもいろいろな問いかけが生まれたわけですよね。この1円の本の隣では普通の価格の本が売られている。本を売る営み自体が揺るがされる体験だったと思います。
小野:おっしゃる通り、在庫はもうほぼなくてその影響も出ているんです。今日会場にいらっしゃっているお客さんのなかで、リニューアル号を1円以外で買われた方はいらっしゃいますか? 何でこんなことを聞くかというと、いまアマゾンやメルカリで何千円という価格で転売されていて。
松村:転売価格の相場もできつつあると聞きました。みんなが探り合いながら。価格はつくり手側が定めるのが普通ですけれど、手に取った人たちが値付けを始めた。何千倍もの値段をつけて転売するのはすごくアコギだと思いますが(笑)。ただ、実際に起こってしまった転売という現象が投じた波紋もあると思います。「価格ってなんのためにあるのか?」とか「何が適正なのか?」とか、「ものの価値と価格ってどう関係しているのか?」とか、みんなが考えるきっかけにはなっていますよね。
小野:なかには1万円くらいで出品している人もいて、コメントに「いくらで売れるかの実験です」と書かれていたんですね。そんな人もいるんだなと思いました。
松村:今日の会場の入り口に並べてあった「1円ショップ」の商品もおもしろいですよね。「国語辞典 全24語」はAmazonの国語辞典カテゴリで1位になったんですよね?
小野:Amazonって売上額ではなく、売れた数でランキングが決まるんです。なので、1円ショップの商品があらゆるカテゴリで1位を独占するという現象が起こりました。ちなみに、国語辞典は学研さんにご協力いただいていて、学研の国語辞典には77,000語が収録されているんですが、価格と語数で割り出すと1円で24語なんですよ。そこで、リニューアル創刊号の特集テーマである「価値」にまつわる言葉を24語抜き出して販売しました。
松村:おもしろいことをやっているな、と思いました。儲けは出ないけど、話題にはなりますよね。それを広告だと考えれば、何も矛盾はない。
小野:その反面、やっぱり1円という値付けには賛否両論がありました。
松村:あったでしょうね。
小野:最初は無料にしようかな、とも考えたんです。でも、無料って世の中に溢れているじゃないですか。YouTubeはタダで観られるし、テレビだって無料です。そして、無料になった瞬間にスルーされる。価値があるかないかではなく、そもそも無料は価値を感じるきっかけにならない。その時に、1円だと思ったんですね。
小野:1円ショップの商品もそうなんですが、『広告』自体もAmazonの雑誌カテゴリで1位になりました。「話題になっているから買った」「1位だったから買った」という人も多かったと思います。自分が欲しいからではなく、誰かがいいと言ったから買ったという。
松村:何かをいいと思ったり、好きだと思ったりする感情って、自分のものなのか、ほかの誰かのものなのか、それとも文化みたいなものがそうさせているのか、ほとんど切り分けが不可能ですよね。いまの話のように、自分が欲しいものよりも、誰かが欲しがっているものとか、みんなが欲しがるものに魅力を感じてしまう。欲望というのは、いったい誰の欲望なのか。誰かの策略なのか。私たちは本当に価値あるものをちゃんと見極められるのか。
小野:『広告』誌面の対談で、松村さんはそのことを “欲望の模倣”と説明してくださったんですが、価格も模倣される要素のひとつだと感じました。「高いものはいいものだ」「高い値段がついているということは、それだけの価値を世の中が認めているんだ」という。
松村:『広告』に掲載されていた「値付けの裏側」という記事にも書かれていましたが、「100万円もするワインはいいものだ」ということになりますよね。たしかロマネ・コンティの話でしたが、味見してから「素晴らしい。買います」ではない。味見に100万円も払う人なんていませんから。つまりそれは味が素晴らしいのではなく、「誰かが100万円の価値をつけたワインを飲んでいる自分が素晴らしい」という消費の仕方であり、100万円という価格を飲んでいるわけです。それって、果たしてものの価値なのか。それとも、100万円のワインを飲む自分がどう見られるかという価値なのか。
小野:その記事は格付けにまつわる話で、とくにワインは誰かの格付けで価格が決まるものなんですよね。そんな“欲望の模倣”という視点を持った時に、「自分はきちんと価値を見つめられているのか」という疑問がわいてくる。それはものをつくる上でも同じで、「これがいいものだ」と自分では思っているつもりでも、「本当に自分でそう思っているのか?」「過去の偉いデザイナーなりつくり手が言っていたことなんじゃないか?」という問いもある。その問いを自覚することが重要だと思うんです。そういう意識がないまま、いままで僕はものをつくってきたんですが、もっと引いた視点で、「自分には無自覚な部分がある」ということを自覚した上でものをつくっていくことが大事だと。だから、取材で“欲望の模倣”という言葉を松村さんから聞いた時、すごくハッとさせられたんですよね。
小野:最初に『広告』は視点のカタログと言いましたが、ものをつくるという行為はある意味、自分がいいと思えるもの、価値があると思えるものを形にすることでもあります。そういった価値を判断しなければいけない時、僕らはどうすればいいんでしょうか。
松村:たしかに、これは価値があると決断できる意思ってかっこいいですよね。でも、この『広告』という雑誌を読んで明らかになるのは、やっぱり価値ってそんなに簡単に決められるものではないということ。いま私たちが生きているのは、自由な意思でなんでも選択ができて、「これがいい」と判断できる社会ではないということ。それがよくわかるんです。
たとえば、「権威によるアワードは必要か」という記事を読んでみても、グッドデザイン賞を決めるプロセスについて、「その決め方ってどうなんですか?」と小野さんがすごく突っ込んで聞いていますよね。グッドデザイン賞という価値を決める時に、なぜか政治家が登場して最後のお墨付きを与える。内閣総理大臣賞だから仕方ないかもしれないけれど、結構きわどい価値の評価システムがある。
賞というのは何かを買ったり、いいものだと判断したりする時にすごい影響力があるわけですが、自分で自由に価値を判断しているように思っているだけで、じつは受賞歴があるかないかという枠組みでしか判断していない。選択肢自体があらかじめ規定されているんですよね。
そういった構造が、いかに価値の選択肢を狭め、歪めてしまっているか。そして、その構造に私たち自身も1枚噛んでしまっている。そのことを自覚できるか。そこがとても重要で、「俺はこれのよさがわかる」とか「これが俺の意思だ」と言っている人ほど、じつは危なっかしい気がします。
小野:僕の質問に対して松村さんが「いや、その質問はおかしい」という、いまみたいなやりとりが『広告』の対談でも何度もあって(笑)、すごく考えさせられました。「これが価値だ」と言い切るのは、とても難しいことなんだと。
松村:雑誌のなかでも、「価値はこのような指標によって出来上がっています」と素朴に論じている記事と、「価値ってもうちょっと複雑な動きから成り立っています」と考えさせられる記事がありますよね。そのコントラストは実際にみなさんも誌面を読んでいただければわかると思いますが、両方あってよかったのだと思います。「これが答えだ!」みたいなことが書いてあるより、いろんな矛盾する違う見方のなかから問いが生まれ、読者に考えることを促すほうがたぶん重要ですよね。
小野:最後にお聞きしたいんですが、いまという時代は、文化人類学の視点に立った考え方こそが必要とされているのではないかと思うんです。今日のテーマでもある「ものの価値」を再構築することができるのではないかと。松村さんはどうお考えですか?
松村:ものの価値って、どこかに行けば手に入るような素朴なものではないし、単純化して何かと比べてしまった瞬間にこぼれ落ちてしまうものです。だから、文化人類学にせよ、ある学問がものの価値を再構築できるといったシンプルな夢物語をあまり期待しないほうがいいと思います(笑)。
いまは価値をめぐって、数量的に良し悪しを評価しようといろんなランキングのようなシステムができていますよね。まさに本来は複雑なものを単純に並べて比較してしまうわけです。だんだん、そこでいい点を取ること自体が目的になる。すると、何のために学問をやるのか、何のためにものをつくるのか、何のために働いているのか、そもそもの目的が見失われていく。年収500万と1,000万なら、1,000万の人の方がよりよいと判断されてしまう。でもそれって、年収という仮の指標に判断を投げちゃってるんですね。何のために仕事をして生きているのか、ということを自分では考えずに。
そもそも自分は何がしたいのかを不問にして、誰かが用意した価値基準のなかで自分の価値を測っている。そういった価値を定めるいろいろな力学や構造があるし、私自身もそれに巻き込まれています。みんながそういう渦のなかにいる。そのなかでどう生きていくか。みんな不安になると「これが最新情報だよ」といったものに飛びつきやすいですよね。最新の脳科学の知見では……とか。文化人類学者がこう言っています……とかも同じです。でも、こんな時代だからこそ問われているのは、情報だけに振り回されずに、自分の内面も含めて身の回りで起きていることをきちんと自分で感じとって見ることができるか。自分に置き換えて考えれば、そんな単純に言えるわけない話を素直に信じてしまう人がけっこう多い。ほんとにそうなのか?という疑問から、じゃあそうでないとしたら、どう考えればいいのか、そうやって自分で模索できる力が求められているのかなと思います。
小野:文化人類学の視点に限らず、世の中を捉えなおす試みを自分たちでしていかなくてはいけない、ということですよね。
※このトークイベントは7月29日に開催されました。文章中に出てくる販売状況などは当時のもので、『広告』リニューアル創刊号、「1円ショップ」の商品ともに現在は完売しています。
文:増田 謙治
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