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若者には考えられぬアホマウンティング、博報堂社員の誇りは携帯電話の番号が「090-3xxx-xxxx」(連載:中川淳一郎の「博報堂浦島太郎」)

2020.02.20
ネットニュース編集者・PRプランナーの中川淳一郎さんが18年ぶりに博報堂に帰ってきた!久しぶりの古巣を歩きながら、中川さんが感じた変化や懐かしい話を自由に語っていただく連載「博報堂浦島太郎」。第2回では、今の若い人には分からない?当時の携帯電話事情とセキュリティ事情を振り返ります。

 今や会社に入るためには、警備員が立つ脇のセキュリティゲートを通り、執務室に入るにはカードキーが必要なのは当たり前の話である。しかし、博報堂が現在入る赤坂Bizタワーの前に借りていた東京・芝浦のグランパークタワーは少なくとも私が退社する2001年まではセキュリティゲートなんてものは存在しなかった。

 グランパークタワーに別件で数年前に行ったが、この時はセキュリティ対策はできていたので、当時の博報堂がおかしかったわけではなく、社会全般的にセキュリティ意識が薄かったのだろう。

 今考えればとことん呑気だったなと思うのが、某営業局のドアの貼り紙だ。そこには黒い悪魔のようなイラストが描かれ「最近○○局で財布の盗難が発生しております。不審者には十分気を付けましょう」と注意喚起がされていた。

 さらに記憶が定かではなくなったのだが、今は全従業員が持つ入館証というか社員証も当時はなかったのでは。いや、写真付きの社員証はあったような気もするが、経費精算をするための銀行カードの裏面に顔写真が貼ってあったような記憶がある。さて、1990年代後半から2000年代前半にかけて人々が首から下げていたのは入館証ではなく携帯電話だった。今考えても不思議な文化なのだが、1990年代前半、ミネラルウォーターのエビアンを首からかけるブームがあったが、そのブームが終了した後、人々は何を首から下げればいいのか迷ったのだろう。

「そうだ! この最新鋭のツールを首からぶら下げてイケてる人風に見せればいいのだ!」とばかりに携帯電話に長いストラップをつけて首からぶら下げていたのである。

(左)携帯電話を首からぶら下げた先輩男性と (右)当然、自分もぶら下げていた

 あ、携帯ストラップといえば、アメコミライターとしても知られる杉山すぴ豊氏だ! 当時PD局(プロモーションデザイン局)に在籍していた同氏は「カメレオン男」と呼ばれており、オレンジや黄色のド派手なスーツを日替わりで着ており、携帯電話にはストラップが何十個もついていた。同氏が電話をかけていると筋トレになるのではないか、と思う程だった。

 そして携帯電話といえば、皆が私用電話のみを持っており、それを業務で使いまくっていた。経費の請求なんてしようがないため、自腹で高額の電話代を払っていたのだろう。今では社員が会社からスマホを支給されており、その端末で会社のメールも見ることができる。いい時代になったともいえるが、業務に振り回される時代になったともいえる。

 博報堂の人々の先端性を知ったのは、入社後だった。東京・多摩地区の田舎で過ごした学生時代の友人で携帯電話を持っている人はほとんどいなかったし、バイト先の植木屋でも携帯電話を持っているのは社長だけだった。そんな環境だったからこそ、私が新入社員だった1997年、携帯電話は持っていなかった。当時私がいたCC局(コーポレートコミュニケーション局)で持っていない人間は私一人だったし、営業でも持っていない人はいなかった。少しずつ仕事が増えてくると、やはり携帯電話を持っていないというのは不便になってくる。「どうせ会社に戻ればメモが残っているからいらないじゃん」と思っていたのだが、周囲から「いい加減に持ってくれよ~」という懇願もあり、仕方なく1998年に携帯電話を買うことになった。

 しかし、当時は携帯電話の番号にまつわるアホなヒエラルキーがあった。「この番号だとエライ」というものだ。初期の携帯電話は030-123-4567のように10桁で、今より1桁少なかった。他にも010と020と040と080から始まる番号があった。それが1999年に090に統一され、それまで010だった人は「1」が3桁の番号に組み合わされ「090-1xxx-xxxx」となるようになった。同様に030だった人は「090-3xxx-xxxx」となった。

 さて、そんな時にドヤ顔をしていたのが博報堂の従業員である。何しろ新しいものが好きな人が多いだけに、携帯電話を初期の頃から持っていたため、「ワシは昔からケータイ持ってたもんね♪」と言えたのである。その時の自慢の武器となるのが、「3」の番号である。元々の「030」がもっとも古いとされており、090-3の番号を持つ人は誇らしげにしていたのである。次いで「2」→「8」→「1」→「4」といった感じでエラさの序列があったように思える。1998年に携帯電話を初めて買った私は後発組のため「9」だったが、周囲の同僚が皆「3」「1」「2」「8」「4」だったこともあり、若干引け目を感じていた。そしてようやくドヤ顔ができるようになったのが、ぽつぽつと「9」の後輩ともいえる「6」や「7」も登場した頃だ。

 今の若い人はこんなバカな勝負を当時の人々がやっていたことを知らないだろう。私もこうした浦島太郎として過去を振り返っていたから思い出しただけなのだが、本当にバカなことに対して我々はオレに血眼グレート状態だったのだとしみじみとする。

 こうした時代を経て「あぁ、よくなったな」と思ったのが、正社員と非正社員の間の区別が減ったことにある。会社には正社員以外にも派遣社員や出向社員、業務委託契約の人などがいる。かつて正社員の名刺には左上にエンボスで「H」というロゴが刻印されていた。非正社員はサラサラだったのである。また、メールアドレスもたとえば「博報一郎」という名前だった場合は正社員ならば単純にICHIRO.HAKUHOというメールアドレスだったが、非正社員はそれと分かるように区別されていたのである。

 こうして新しいテーマが出てくると関連した出来事を色々と思い出してしまうが、当時は外部の人から送られてきた「みかんせいじん」(子供向け番組『ウゴウゴルーガ』のキャラ)がチョコチョコとデスクトップを歩くツールなどを会社のPCにダウンロードしていた。私の隣の席にいた女性は、「Holiday Light」というツールをダウンロードしていた。これは、デスクトップの隅っこ4面をクリスマスのオーナメント風な形で彩り、「チャチャチャッチャッ、チャチャチャ、テケテケテレレレレ~」という音が延々流れ続けるというもの。12月に入ると彼女はこれを立ち上げ、1日12時間ほど、延々とこの音楽が鳴り続けているのである。12月26日になるとようやくこの音は消えるのだが、当時の我々は「いやぁ~クリスマスの季節だねぇ~」と呑気だった。

 今の時代はそんな恐ろしいことはできないわけで、こうした面からも、前出の「携帯電話番号マウンティング」がなくなったことも併せてしみじみと、会社もまともになったものだと思うのである。

◆中川淳一郎/なかがわ・じゅんいちろう

1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。一橋大学卒業後、博報堂入社。企業のPR業務に携わる(2001年退社)。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』など。
(写真は1997年入社時)

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