どうも、博報堂統合プラニング局業務委託の中川淳一郎です。1997年に博報堂に入社し、何をトチ狂ったか4年で辞めてしまい、無職→フリーランスになりました。この度18年ぶりに当社と関係を持つようになりましたが、今回は「会社員って意外といいぞ」という話を書きます。
会社を辞めたのは2001年3月31日です。この日から「オレは自由の身だ……」といった感慨を持つのかな、と思いましたがまったくありません。何を思ったかというと「寂しいな……」ということだけです。
自分は本を読んだり16時からはフジテレビの連ドラ『西遊記』やら広告業界を舞台とした『恋のチカラ』の再放送を見ることだけで社会との接点を持ち、「オレは生きている」という気持ちになっていました。何しろ暇なので、自転車に乗って東京・池尻大橋の家賃3万円のアパートから国道246号線を下って多摩川を目指し、等々力渓谷を散歩したりしていました。
そこから4ヶ月ほどほぼ何もせず、面倒臭いのでハローワークにも行かない怠惰な生活が開始しました。親は「せっかく会社に入ったのにこの子は何も相談せずにすぐに辞めおって……」と呆れ顔なので実家に行くこともままなりません。
以来、私は19年間のフリーランス生活に入り、ネットニュースの編集等を行うようになります。途中からバイトのライター2名がオフィスに週1回ずつ来たり、2010年からは法人化して社員のY嬢が週1回オフィスに来るようになったのですが、この時「組織っていいな」と思うに至ったのです。
今、私は週1回博報堂へ行き、週2回小学館へ行く勤務体系になっています。この3日間は「あっ、人がたくさんいていいな」と毎度思っています。フリーランスってやっぱり孤独なんですよ。
トイレに行った後のちょっとした立ち話とか、デスクに大学の後輩がやってきたりもする。しかも、学生時代、3年間ライターのバイトをやってくれていた女性が博報堂に入っていて、一度会いに来てくれ、さらには現役生との焼肉会にも彼女は来てくれました。
今、「独立」とか「フリーランス」とかが憧れの働き方になっています。それを止めるようなことはしませんが、19年間そうした働きをしてきた自分としてはやっぱり「組織があるのはいいな」と思います。結局一人ぼっちだと「思い出」が作れないんですよね。
今回こうして「博報堂浦島太郎」を連載させてもらっていますが、私は様々なメディアで「働き方」や「仕事論」についての連載を持っています。愕然としたのが、かなりの部分が23歳から27歳までのたった4年間だけ在籍していた博報堂での経験を書いていることです。最初のあの4年があったからこそ、「仕事の本質」的なことは分かりましたし、様々な人々の利害関係を整理し、100点は無理であるものの、かかわる人々が80点は取れるような仕事ぶりをすることの重要性が分かったような気がします。
さて、18年ぶりの博報堂ですが、当時30代だった先輩が50代になっているのが当たり前です。白髪になっている人もいましたし、先日は隣の局にいた部長(当時)と赤坂駅のベンチで会い「あれ、戻ってきたって聞いたけど本当だったんだ!」なんて言われ、一緒に千代田線に乗り、懐かしい話をしました。
もしかしたら今博報堂を辞めたいと考えている若手もいるかもしれません。そういった方がいたらぜひ私にお声掛けをください。辞めた後の人生設計、その後の他人からの扱われ方などについてキチンとお話しします。統合プラニング局の真ん中あたりの机に毎週火曜日におりますので。そこで話した内容は別の社員には話したりしません。どこか外に出てヒソヒソと話し合いましょう。
もちろん、独立した場合に発生する「いい思い」も色々お話ししますが、伝えたいのは、「なんで18年後に突然戻りたくなったのか」という話です。
独立した人間で常にチヤホヤされるタイプの方は孤独を感じることはないことでしょう。しかし、多くの人はそうならず、ふと「なんか寂しいんだよな……」と思うことがあります。その時に職場の人々との何気ない無駄話やバカ話がものすごく愛おしく思えてくるのです。
私も当然博報堂との接点がこの18年間切れたわけではなく博報堂ケトルを始めとした部署との付き合いはそこそこありました。そんな時、打ち合わせで訪れたBizタワーの1階ロビーでかつての知り合いに会った瞬間「おいおい、元気だったか~? お前、食えてるか?」と言われる時の嬉しさったら!
あぁ、オレのことを心配してくれているんだ。ありがたい。
こう毎度思うのでした。さらには、CC局(現PR局)の関係者の飲み会や花見があったら毎度参加させてもらいました。一緒の時期に働いたこともないような“後輩”のことも紹介してもらえ、サウナで裸の付き合いをしたことなどもあります。
27歳の時に勢いよく辞めてしまいましたが、「あのまま残っていたらどうなっていたのかな……」と思うことはあります。やっぱり博報堂という会社は社会の最先端の「困ったこと」「流行りそうなこと」の相談を受ける会社です。従業員でいるだけでそうした案件にかかわれるのは組織力あってのことですし、そこはやはりヘッポコフリーランスは敵わないな、と改めて浦島太郎として戻ってきた人間はしみじみと感じ入るのでした。
毎年、同じ部署の先輩だった嶋浩一郎さん(現:博報堂執行役員)と一緒に、当時の上司だった柴田昌明さんの命日に湘南の墓にお参りに行きます。嶋さんは毎度柴田さんにこう報告してくれます。
「あの時あんなにバカだった中川もそこそこ活躍するヤツになりましたよ。今では週刊新潮に連載を持ったり本を何冊も書いたりメディアにも続々と出演するようになりました。柴田さんはこいつを辞めないように説得してくれてありがとうございました。こら、中川、お前もお礼を言え!」
「柴田さん、あの時はスイマセン、ダダっ子みたいな感じだと思いますが辞めるのを止めていただき、それでも最後は辞めさせていただきありがとうございました。あれからなんとか生きてきましたが、柴田さんの教えと“ガハハ精神”は一生忘れません」
かくして嶋さんと私は部下として普通の値段のビールを飲み、柴田さんにはプレミアムビールを捧げ、また来年も来ますね、とその場を去るのでした。
1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。一橋大学卒業後、博報堂入社。企業のPR業務に携わる(2001年退社)。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』など。
(写真は1997年入社時)