岡本
この連載では「少し未来の旅を考える」というテーマのもと、毎回さまざまなゲストをお迎えし、データや論理からは少し離れてより“感覚的に”旅というものを語り合っています。4人目のゲストにお越しいただいたのは、岩手県釜石市を拠点にサステナブルツーリズム(持続可能な観光)の取り組みを推進されている、かまいしDMCの久保竜太さんです。
僕らはワンダートランクという会社でさまざまな地域の人と一緒に旅のエクスペリエンス、旅行商品をつくっていくなかで、そうした地域に今後いかに相性のいい人たちが来続けてくれ、地域の経済がきちんと回っていく仕組みがつくれるかを考えるようになりました。そこで、SDGsに詳しい博報堂の川廷昌弘に相談したところ、「サステナブルツーリズムのことを知りたいなら久保竜太さんに聞くべきだ」と言われたんです。その念願が叶い、こうして対談が実現できてとても嬉しいです。
久保
そうでしたか。それはありがとうございます。
岡本
まずは、久保さんがなぜ今のような活動をするに至ったのか、きっかけについて教えてくれますか。
久保
実は僕はかつて、生まれ故郷の釜石のことが大嫌いで、一度故郷を出てからはまともに帰ってもいませんでした。さらに言うと観光や旅にも興味はなかった。でも震災を経験してから人生ががらっと変わったんです。
2011年3月11日、震災が起きるとすぐ、僕と妻は互いの家族の安否確認のために、当時住んでいた北上市から釜石市まで車を走らせました。翌朝ようやく釜石にたどり着きますが、家族の半分しか安否がわからず、大きな余震が来るたびに「高台に戻れ!」という消防団の怒号が響くような混乱状態。そんな中妻方の幼い甥っ子と姪っ子を探しに、僕らは意を決して浸水域に入り、幸い高台の病院に避難していた彼らを発見することができました。足元には瓦礫にヘドロが被っているような状態でしたし、余震が続いていつまた大きな津波が来るかもわからない中で、僕たちは1キロくらいの道のりを彼らを背負って必死に歩き、無事浸水域を出ることができた。その間、生まれて初めて、自分が本当に今“死地”にいるんだということ、そして「死にたくない」という強い感情を覚えたんです。その後釜石の僕の実家で過ごした10日間が、僕の人生の大きな分岐点となりました。
岡本
それは壮絶な体験でしたね……。
久保
吉村昭の『三陸海岸大津波』(文春文庫)という本との出会いも大きかったです。三陸という場所が、過去いかに何度も津波被害に遭ってきた土地かということを、震災後にその本を読んで初めて知ったんです。あれだけ嫌っていた釜石が、もしかしたら地球上で何か特別な役割を持っている土地なのかもしれないと感じるようになり、「ではなぜ三陸の人々は、そんな土地に住み続けているのか」「自分や子どもたちがこの地に住み続ける意味は何か」という大きな問いが生まれた。それが自分にとって、「復興とは何か」という問いと同義になっていき、これからの人生で追求していきたいと思うようになりました。
岡本
そうだったのですね。
久保
『三陸海岸大津波』でもう一つ印象的だったのが、三陸の人たちは明治時代から津波を「ヨダ」という名で呼んで恐れていたという記述です。調べてみると、三陸出身の民俗学者である川島秀一先生の本にも、三陸には船大工が船に「フナダマ様」という神を埋め込む風習があり、神を収める蔵を「ヨマクラ」と言ったそうで、「ヨダ」と「ヨナ」が通じるという話でした。当時の船大工は神主のような役割を負っていたわけです。実は僕の父方の実家が三陸の漁村にあったので、父親に船大工の話を聞いてみたところ、僕自身の祖父がかつて船大工をしていたと知らされて非常に驚きました。
僕は先祖のことを何も知らなかった上に、過去の津波で祖父の家も流され、先祖につながるよすがは何一つ残っていない。その事実に突き動かされるように、僕は久保家の家系図を書くことを思い立ちました。その過程で、4代前の高祖父が、明治三陸大津波で妻を含め家族5人を亡くしたものの、その後再婚し14人の子どもを残していたことがわかりました。それを知って思い出したのは、イザナギとイザナミの神話です。夫婦喧嘩の末イザナミが「私はこれから1日1000人の命を奪う」と伝えるとイザナギが「では自分は1日1500人の命を生み出そう」と答えたというもの。自分の祖先から、神話にも描かれたような悠久の命の営みを感じましたし、さらには自分自身も明治三陸大津波がなければ存在しなかったこともわかった。津波災害は悲劇ではありますが、それによって生まれる命も、物語もあるはずなんですよね。
そうやって過去から連綿と続いてきた家系の線を、今度は子どもたちのところまでさらに引いていく。するとはっきりと、「自分はこの命の連鎖のなかのたった一つのつなぎでしかない」ことに気づかされました。そして僕の4代前に明治の大津波があったということは、僕の玄孫くらいの時代にまた大きな災害があるかもしれない。そこに想いを馳せたとき、サステナビリティとは何かを直感的に認識し、かつ、僕が今すべきこと、できることが見えてきた気がしたんです。話が長くなってすみません(笑)。
岡本
いえいえ。震災直後の体験、そして家系図をつくったことから、そのように大きくて深い気づきが得られたんですね。
久保
はい。ですからもともと僕の興味は、人はなぜその土地に惹きつけられるのか、あるいは土地と人を結びつけるものは何か、といったところにあるんです。津波という大災害に繰り返し遭いながらもこの地に先祖が住み続け、また子孫が住み続ける意味があるのなら、それを見つけたいという気持ち。そのアプローチ方法として、観光というものが僕にとっては最適の手段だと思えたんです。それでしばらくは毎週釜石に通って災害ボランティアに参加したり、釜石の地域の魅力を伝えるトレッキングツアーを企画したりといった支援活動を続けていましたが、2014年、釜石市の観光分野における復興コーディネーターの募集があった際にお声がけいただいて、2015年には妻と一緒にUターンすることになりました。
復興と言っても決して元通りに戻そうというのではなく、新しい街づくりを目指すことが前提になっていましたから、その頃新たな観光の概念である「サステナブルツーリズム」という言葉に出会い、直観的にこれだと思えました。以来、釜石市が掲げる「釜石市観光振興ビジョン」策定に関わったり、地域の「稼ぐ力」を引き出し、観光地域づくりを行う「観光DMO(Destination Management Organaization)」設立を推進、実際に2018年に釜石版DMOである「かまいしDMC」の創業に参画するなど、釜石の観光地としての価値をとらえなおし、持続可能にしていく活動に積極的にかかわってきました。
岡本
僕らと釜石のご縁ができたのは2019年、日本では珍しい1000キロにわたる長距離トレッキングルートである「みちのく潮風トレイル」を舞台にした旅を企画したことがきっかけでした。それから、ラグビーワールドカップ開催記念として、釜石でのグランピングを企画。食や体験、宿泊を通して、お客さんと地域の人が交流を楽しむ場をつくったのですが、そこで、アメリカからのお客さん、宝来館という地元の旅館の女将さん、イベントに向けてつくった大漁旗の染色に当たられた花巻の職人さんと、火を囲んで話をした体験が非常に心に残りました。宝来館の女将が震災直後の体験談を語ってくださると、アメリカからのお客さんは「実はあの時すでに日本を訪れたいと思っていたが、家族に反対されて断念した」と打ち明けられ、さらに同じ岩手でも花巻はどういう様子だったか、一方東京は……といったことを語り合ったわけです。文化も境遇も異なる我々が、ひとところに集まって同じあの日のことを語り合い共有する。こういう出会い、体験のために、僕らは旅の仕事をやっているんだなと心の底から感じることができました。
また宝来館の女将さんによると、震災後、地域によってはあえて防波堤をつくらずに、コミュニティ内でしっかりとこの体験を語り継ぎ、後世の命を守るという選択をされたとのこと。堤防をつくって安心してみんながばらばらに暮らすよりはその方がいいんだ、という話も非常に印象的でした。久保さんは、震災を経て地域の人との間により共感が生まれたり、深まったりするのを感じることはありましたか。
久保
それはありましたね。震災後は多くの人がコミュニティを意識するようになったと思いますが、地域が一体感を覚えたり、結束する象徴として、特に郷土芸能の存在が大きいのではないかと思います。実は僕の義父が虎舞の頭をつくる職人なのですが、自身も避難生活を送り、まだ多くの人が大変な状況にある中、早々に郷土芸能の団体の仲間たちと一緒に、避難所を回って虎舞を披露していました。岩手や三陸は特に郷土芸能が盛んだと言われていますが、やはり気候が厳しく災害が続いてきた土地だったからこそ、祈りや追悼の意を込めて何百年と続けられてきたのでしょうし、コミュニティを一体化させる存在として重要だったのだと思います。僕自身、瓦礫が散乱する中、子どもから高齢者まで誰もが虎舞を囲んで集う風景を見た時に、それまで感じたことのないような強い感情を覚えました。今思えばそれは、自分自身の“民族的アイデンティティ”を再認識し、コミュニティに回帰したと思えた瞬間だったのでしょう。あれだけ釜石のことを嫌っていた僕が、釜石で生まれたことを誇りに思うことができたんです。
岡本
なるほど。僕らは山陰・島根県で、石見神楽をテーマにした旅の企画をしたのですが、一緒に旅の企画を考えてくれたイギリスのエディターの女性が、このエリアの旅のコンセプトを「アラウンド神楽」と表現してくれました。伝統芸能としての神楽だけでなく、装飾品やお面、石州和紙など、あらゆる産業とそれに紐づく生活が、石見神楽を中心に「生態系」を形作っているという意味で、確かに現地では、そうした伝統芸能や伝統文化がコミュニティのさまざまなものをつないでいることを実感することができました。また小さい子どもにとっては、神楽で舞われるスサノオはヒーローになりうるし、おじいちゃんおばあちゃんは、不思議と自分のご先祖様たちと一緒に見ているような気持になれると。前回、写真家のエバレット・ブラウンさんがおっしゃっていた、タイムトリップの装置のようになっているんですね。
久保
音楽、舞…。芸能にはそういう特殊な力がありますね。これまでの何百年、何千年の人々の想いがそこに凝縮されていて、舞う人も、個人としてではなく先祖、子孫として舞っているように感じられます。
岡本
サステナビリティの話になるとすぐ未来のことを考えがちですが、実は今の自分につながるルーツの部分や過去をきちんと見て、それから未来を考えるべきなんだということをお話をうかがっていて思いました。
久保
三陸はいつか必ず津波が来る場所ですから、今は震災後であり、震災前とも言えるんです。だからこそ誰もが自然に、自分の孫の代には何を残すべきか考える感覚が身についているような気がします。その三陸という土地からサステナビリティの力強いメッセージを発することに、意味があると思っています。
岡本
そうですね。サステナビリティは一般的に「持続可能性」と訳されますが、お話を聞いていると少し違うニュアンスもあるような気がしてきました。久保さんがサステナビリティを日本語で表現すると何になるでしょうか。
久保
すごく難しい質問ですね。うまく一言では表せないのですが、僕の中では、先祖ないしは子孫との対話を伴うもの、でしょうか。子孫の視点を借りなければ見られない世界がやはりある。僕は今自分の息子の目を借りて未来を考えようとしています。息子が僕くらいの年になったときにどんな街にしていたいか、というのはすごくリアルに考えることができますから。先祖や子孫、あるいはもしかしたら自然…時を超えた存在との対話と言えるかもしれません。
岡本
サステナビリティという言葉は今流行語のようになっているので、そうやってかみ砕くことが必要ですね。久保さんのお話は、どの地域の人にとっても、自分たちと重ねることができるのではないかなと思います。
岩手県釜石市で持続可能な観光の国際基準の導入を推進し、国際認証機関Green Destinationsの認証プログラムへの参画と業務全般を担当。日本から初となる「世界の持続可能な観光地100選2018」選出など、4回のアワード受賞へ貢献。観光庁「持続可能な観光指標に関する検討会」メンバー、観光庁「日本版持続可能な観光ガイドライン」アドバイザー。
2005年博報堂入社。統合キャンペーンの企画・制作に従事。世界17カ国の市場で、観光庁・日本政府観光局(JNTO)のビジットジャパンキャンペーンを担当。沖縄観光映像「一人行」でTudou Film Festivalグランプリ受賞、ビジットジャパンキャンペーン韓国で大韓民国広告大賞受賞など。国際観光学会会員。