博報堂 研究開発局 上席研究員 野坂泰生
「不便益」とは、不便の効用に着目して、そこに積極的に価値を見出していこうという考え方です。例えば、遠回りすることで思わぬ発見や気づきを得られたり、遠足のおやつの額を制限されることでその中に新しい楽しみを見出したり、といった経験は誰にもあるでしょう。その効用はさまざまですが、ただ利便性や合理性を追求することでは得られない価値がそこには確かにあると考えています。
博報堂では、この「不便益」を企業のマーケティング施策(以下、企業施策)の発想などに活かせないかと考え、提唱者である京都大学特定教授・京都先端科学大学教授の川上浩司先生にお声がけをして、過去に実施された多種多様な業種の企業施策レビューを行う共同研究を2019年4月より行っています。
これまでの共同研究から、「不便益」がみられる企業施策には、「益が生まれる7つの不便」と、顧客・ユーザーが感じる「不便から得られる7つの益」があることがわかっています。それらの「不便」と「益」の項目を掛け合わせたマトリクスに過去の成功事例をプロットすると、ユーザーにとって魅力的な「不便益」を含む施策を生み出すことができるという発想支援フレームを開発し、今までにない視点を持った企業プロモーションの提案などに活用し始めています。
企業施策にみられる「不便益」には、その施策の中で完結するものの他に、商品やサービスとの一体の関係で生まれるものがありますが、さらにその時代や社会の様相といった、いわゆる「影響要因」によってもたらされることもあります。
今年のコロナ禍も、この影響要因にあたります。特に不要不急の外出を避ける「STAY HOME」は、外出が制限されるので「限定される」という不便を生んでいます。
ある出版社は、本の専門家が独自のテーマで集めた数千冊の本を、利用者の“関心・興味”や“読んでなりたい気分”に沿って紹介するといったサービスを行いました。これは、STAY HOME期間中、とことん極められる楽しみを無限に享受できるという益を生み出しています。
また、ある飲料メーカーが提供している、嗜好性や食シーンなどに関する質問に回答すると、AIが判断してお勧めのワインと味覚のチャートを提示してくれるというサービスがあります。これも、自宅に籠る中「ワインは詳しくないけどこの機会にちょっと試してみたい」という生活者の気持ちを引き起こし、ずっと続けるうちに普通なら極めるのは困難と言われるワインに精通できて誇らしく思える、という益が得られます。
これらはまさに、「ウィズ・コロナ」の時間軸が生み出した「不便益」といえるのではないでしょうか。
それでは、これから訪れる「アフター・コロナ」の「不便益」はどうでしょうか。
「アフター・コロナ」に関しては多くの学者や有識者がコメントを発していますが、ほぼ共通している考えは、「コロナ禍が去っても、ニューノーマルとして生まれた習慣がすべて元に戻ることはないないだろう」ということです。
例えば働く人たちを対象にした多くの調査の中では、テレワークのような勤務形態は今後も残ってほしいという意見が多く聞かれます。定時出社のルールが緩和され、自分の業務遂行に適した時間や場所を自分で選んで行動する働き方が定着すると、通勤そのものは「めんどうなもの、不便なもの」となっていきます。そこで、通勤時間を寛ぎのひと時として楽しんでもらう試みがこれから人気を博すかもしれません。
コロナ禍になる前の昨年末に、ある食品会社が、豪華観光バスでコーヒーと世界の朝食を楽しめるイベントを実施しました。満員電車で通勤する人たちの一日の始まりを応援するための企画でしたが、「アフター・コロナ」の文脈でこうしたサービスは、これまでとは違った効率的でない通勤であるからこそ、通勤時間を楽しみと捉えることができるという「不便益」にもなりえると考えます。
コロナ禍と同様に「アフター・コロナ」という影響要因から新しい不便益のサービスを考えるという発想は、今後の企業施策を考える上ではもちろんのこと、私たちの社会や生活を豊かにするという観点からも非常に意味があるのではないかと考えています。
なぜならば生活者は、これからもある一定の自粛生活を余儀なくされる中、古い慣習に内在していた無駄や無理を見直しつつ、新しく豊かなライフスタイル確立にむけて前進していこうとすることが予想されるからです。
このコロナ禍を、ルネサンスの時代になぞらえる識者も少なくないですが、「不便益」もこれからのニューノーマルの時代に求められる考え方のひとつになるかもしれません。
1989年博報堂入社。事業局を経て、2002年より研究開発局。主な担当領域は、顧客リレーション/UXを中心とした企業施策、トレード(流通)マーケティング。