渡邉 康太郎
Takram コンテクストデザイナー/慶應義塾大学SFC特別招聘教授
嶋 浩一郎
博報堂/執行役員・エグゼクティブクリエイティブディレクター 博報堂ケトル/取締役・編集者
嶋
今回は、今後どの企業やブランドにも必要になってくる「ナラティブ」と、それを生み出す「コンテクストデザイン」について、『コンテクストデザイン』著者のTakram渡邉さんをお迎えして話していきます。今のPRパーソンやマーケターがこれらの概念を学ぶと、企業やブランドのストーリーをうまく構築できるようになると思います。
コンテクストデザインでは、「誤読を恐れない」ことが大事です。例えば、寿司の文化がアメリカにわたり、サーモンとアボカドを巻いたカリフォルニアロールができた。厳密に寿司かどうかはさておき、大きい文化の流れにおいては、カリフォルニアの料理人が寿司文化を「誤読」したことで新しいカルチャーが生まれたと捉えられます。このような誤読や誤配が起きてもいい、というのがコンテクストデザインの考え方です。
ナラティブにも複数の定義がありますが、私は「ナラティブというのはストーリーが人々の間で語られている状況や構造、シチュエーション」だと考えています。1回話しておしまいではなく、何度も生活者の口の端に上り、また生活者によって新たな解釈が与えられていく。時系列的な変化も積み重なって初めて、文化が生まれていきます。この文化を構築するための発想法の一つのヒントが、コンテクストデザインです。
嶋
このコロナ禍の影響でも、ナラティブの重要性は増しています。生活者がモノの選び方や時間の使い方をよく吟味するようになったので、あらゆるものに存在意義が問われています。当然ブランドにも「なぜ存在しているのか」が突き付けられ、最近ブランドマーケティングの世界でよく言われる「パーパス」がより重要になっています。
生活者の不便を解消してきた時代、市場や競合における優位性で勝っていく時代を経て、今は社会の共感を得ることが企業やブランドに求められつつあります。ヘアケアのブランドなら、スペックでの差別化ではなく、「女性の髪形や生き方の自由を応援しています」と提示するような。つまり“マーケティングのパブリックリレーションズ化”が起きているわけですね。パーパスに共感する生活者や、他社も巻き込んで、文化を共創することが今後の企業の広報活動の中心になると思います。
また、今はストーリーを語る場所もどんどん変わってきています。身の回りのものがIoT化し、生活者がネットに常時接続するようになって、企業は生活者との直接のコミュニケーションや、データやお金のやり取りまで可能になっています。D2Cも、この流れの中で活発化しています。この環境を前提に、長く語り続けられるコンテクストデザインの考え方で、生活に溶けるようなコミュニケーションを構築することが求められています。
嶋
こうした変化から、一方的にストーリーを発信するのではなく、時系列的に常に語られるナラティブが必要になっています。余白を持たせてコンテクストをデザインし、生活者が関与することで完成する。コンテクストデザインは、受け手にもオーナーシップがあるコミュニケーションを創出することでもあります。
では、ここからはコンテクストデザイナーの渡邉さんに解説していただきます。
渡邉
Takramの渡邉です。Takramはニューヨークとロンドンと東京の3拠点でデザインとイノベーションの支援をしていて、僕自身は、企業のミッションの開発やサービス企画、未来を想定したシナリオプランニングなどを手掛けています。
さて、ナラティブについてですが、そもそも人類の歴史は、ナラティブが更新されることで動いてきました。ルネッサンスも奴隷解放運動も地動説も、最近だとMeTooムーブメントもすべて、はじめは異端だった。次第に賛同したり、自ら語ったりする人が増えるうち、常識が置き換わっていった。
産業も、ナラティブの更新によって動いています。発表時点ではまだ異端なものを、誰かが世の中に問うていかないと、産業も更新されない。それはある種、社会の潮流を「誤読する」行為と言えます。ナラティブは、まだ見ぬ世界を描き出すことができます。
渡邉
組織におけるナラティブを考えるときも、この「誤読」がキーワードになります。例えば、企業やブランドのミッションにある程度の誤読可能性があると、一人ひとりの社員のなかにナラティブが根付いていきます。
ミッションの典型として、「代入型」と「複層型」を考えてみました。例えば「世界中の情報を整理し、誰もがアクセスできて使えるようにすること」を掲げるGoogleは、代入型です。「世界中の情報」に任意のキーワードを入れることで自分の仕事を理解できる。「映像」を代入するとYouTubeが、「位置情報」ではGoogleマップが生まれる。新しいキーワードを代入すると、仕事の幅を広げることもできます。だから腑に落ちやすく、日々の行動に接続しやすい。
一方、そもそもが無償の開発者コミュニティから生まれているLinuxは、「世界中の開発者の協力によってオープンソースOSを開発する」がミッションだと言えるでしょうか。活動はあくまでOS開発ひとつで、Googleのような多様性はありません。でも、オープンソースコミュニティに貢献したい人も、他の開発者に認められたい人も、優れたものを作りたい人も、同床異夢的に、それぞれの思いをミッションに託すことができる。これは複層型です。そもそもあらゆるミッションは複層型であるはずですが、Linuxは非営利目的で、個人の自発的な動機がある前提だからこそ、象徴的な例だと思います。
いずれの型でも、社員個人が自分の物語として解釈できる「誤読可能性」があるのが特徴ですね。その結果、ナラティブが個人の中に根を張り、自分の言葉で語れるようになる。ここでの誤読という言葉は、ナラティブを自分自身に寄せて理解できるというイメージです。
嶋
じゃあ、誤読可能性はどうやってつくれるのか? ここ、ポイントですね。
渡邉
そうですね。それを考える上で、ナラティブの種類について「Structured(構造的・限定的)」と、「Chaotic(バラバラ)」を両極とする軸を考えてみました。
左のStructuredにいくと、ナラティブがカチッと決まっていて、変更できない“教典”になっている状態です。ただ、ソーシャルメディアと多様性の時代、そもそも固定化した概念を押し付けることはできませんし、個人の心に根付かせるという点でも逆効果です。また、固定化するとはつまり誤読可能性がゼロであり、変化や進化もしないので、“ナラティブの死”とも言えます。一方、右のChaoticにいくと一人ひとりが異なることを言っていて、アンコントローラブルな状態です。ナラティブが無限に発散して、数も多い。合意できないし、無数にありすぎてそもそも発見される可能性が低い。
渡邉
組織がやるべきは、この両極で、思想を振り子のように行き来させることです。その運動のなかでは、組織と個人が「共同所有できる」ナラティブが生じます。組織の教典を押し付けるのではなく、受け手の創造性を刺激して参加してもらう。あるフォーマットを提供してその中で遊んでもらう形もいいかもしれない。例えば、「枠は提供しますが塗り方は自由」な塗り絵のように。
「ナラティブが個人の中に根を張る」とは、この振り子の動きによって、個々人が自分の物語を見出している状態です。これは「誤読可能性」がデザインされることで実現します。
渡邉
では、誤読可能なナラティブは、どうデザインできるのか。コンテクストデザインという書籍を出したとき、「企業やブランドのメッセージをうまく届けるためのノウハウ本」だと考えた人も多かったようですが、実はそうではないんです。英単語のコンテクストは直訳すると「文脈」という名詞ですが、僕はラテン語の語源「con=ともに」「texere(テゼーレ)=編む」という動詞的な意味で捉えています。つまり「ともに編む」デザイン活動です。作り手の「強い文脈」があるとしたら、受け手の「弱い文脈」もあって、両方が編み込まれていく。
渡邉
すると、どうやったら一緒に編めるのか、という問いが出てきます。フランスの批評家、ロラン・バルトは、あらゆる創作は過去の作品の引用の織物であると言っています。何かの作品に触れ、自分なりに解釈し、アウトプットにつながる。これは個人が何かをつくるときも、企業が生活者に何らかの価値を提示するときも同じです。
ただ、いかに「鑑賞」から「解釈」に至り、さらに「創作」に至るかを考えると、各フェーズの間をシフトする際にかなりの障壁、摩擦があります。この摩擦を取り除き、フェーズ間のシフトをなるべくなめらかにすることが、コンテクストデザインの役割です。
渡邉
「鑑賞」から「解釈」に進むには、例えば矛盾、欠け、不足といった「負の要素」が力を発揮します。京都の龍安寺の石庭は、枯山水ですから、波紋の表現が砂でなされています。水面の表現なのに、水は抜かれている。結果、一人ひとりが思い描く“波紋”が庭にプロジェクションマッピングされる。世界でも最初期のAR的作品体験と言えるかもしれません。いちばん大事なメッセージが引き算されている。それによって、石庭の作り手と、受け手=鑑賞者がともに作り上げる作品体験です。
渡邉
ミロのヴィーナスは腕が欠けていて、サモトラケのニケは頭が欠けています。これらを目にするとき、その欠けを頭の中で補いますよね。でも、想像された風景は一つとして同じじゃない。彫像の欠けは意図的な設計ではないですが、欠けたものに接すると、人は自ずと想像してしまいます。
嶋
石庭もギリシャ彫刻も、受け手が勝手に塗り絵をしているような、そんな余白があることがポイントですね。特に石庭なんかは、人によって振れ幅が大きい。日本や東洋のアートには、根本的にコンテクストデザインが込められているし、日本人にもそれを読み解く素養がありますよね。
渡邉
ありますね。長谷川等伯の「松林図屏風」も、松が描かれている図の部分は僅かで、地が圧倒的に広いです。ではその余白は完全な空白なのかというと、確かに「なにか」を感じる。例えば余白に消え入りそうな、淡墨のグレイッシュな部分から、奥行きや湿度や靄を感じ取れます。屏風の前で息を吸い込むと空気の冷たさまで感じられるような気がする。我々が心の中に抱いているものを引き出してくれるのが、余白の力です。
みずから語りたくなるという点で、芥川龍之介の短編小説『藪の中』は象徴的です。ある事件をめぐってさまざまな立場の登場人物が出てくるものの、証言が少しずつ違うので、謎が謎を呼ぶ。ここでは、「矛盾」が人の想像力を刺激します。芥川作品で最も多く論文が書かれている作品が、『藪の中』なんです。
嶋
論文が書かれるということは、もはやナラティブですからね。
渡邉
まさに。語る運動を呼ぶ、ということですね。
渡邉
次に、「解釈」から「創作」へのシフトを考えてみます。負の要素で人の想像力が刺激されたあと、どうやって自分なりの表現に踏み出していけるのか。コンテクストデザインでは、補助線を引くこと、つまり前述のフォーマットや参加性を重視しています。
TakramがISSEY MIYAKEとつくった「FLORIOGRAPHY」というギフトがあります。一見普通の花型のコサージュの贈り物ですが、その包み紙に工夫があります。あらかじめエンボス加工した「木曜日」「コーヒー」などの日常の言葉を、送り手が囲んでいくことで、送り手と受け手の間でだけ意味を持つ手紙になる。大事な人に贈るギフトに言葉を添えてほしいと考えました。でもメッセージアプリが一般的な今、白紙に手紙を書くのはハードルが高い。そこで手紙の書き始めを支えるようなフォーマットを考えたんです。いかに想像を促し、参加してもらうか。その補助線を、無理強いせずに引くのがコンテクストデザインの役割です。
嶋
なぜ、コンテクストデザインを「ともに編みたい」んですか?
渡邉
あらゆる人が自らの創造性を発揮できるといいなと思っています。コンテクストデザインによって作品に参加すると、いつのまにか読み手が書き手になり、オーナーシップや愛着が生まれます。先ほどの花の包み紙で手紙を完成させたら、それはもうその人の作品ですよね。
そうして人々が自らの表現をすると、社会全体の創造性が高まるし、同時に社会の価値基準が多様化します。今、ビジネスの世界は一見、効率や数や規模の論理によって動いているように見えますが、人間ってそれだけじゃないですよね。判断基準が多様化することで、数字によらないものを社会が思い出せるといい。数字と数字以外の価値観のリバランスが必要だと思います。
嶋
ここまでのお話には、マーケターが反省すべき点がたくさんあったと思います。広告をつくるクリエイターでもありえますが、例えばブランドステートメントをがちがちにつくってしまったりする。でも、今の時代は「こうである」と決めつけないほうがいいですよね。余白を持たせて、見た人が参加できるようにする。それは、受け手にオーナーシップを託すことでもあります。
ラジオがいい例ですね。「おばあさんがいます」と聞いて、一人ひとり全然違うおばあさんを思い浮かべる。とても余白のあるメディアだと思います。自分は今後のコミュニケーションは、ラジオ化していくんじゃないかと思います。
嶋
ラジオ番組でもCMでも、受け手の想像力を信頼できないと、いいクリエイションができません。だからコンテクストデザインでは、自分のクリエイティビティより受け手のクリエイティビティを信頼することがとても大事なんですね。自分がつくるのではなく、“塗り絵”をつくって、受け手が完成させる。
渡邉
その通りだと思います。先ほど「同床異夢」と言いましたが、創作が担うべきは、同じ寝床に人を集めながらも、一人ずつに異なる夢を見てもらうことです。コンテクストデザインとは、想像や創作への招待状です。誘われた結果、人は自ら考えたものに所有感や愛着を持つ。逆にいえば、自分で考えたり参加したりする余地がないものには、愛着を持てません。
先日、好きなレストランの料理セットを注文したんです。僕がするのは真空パックの料理を温めるだけですが、お皿の仕上げにごぼうのフリットを乗せる段で、説明書に「どうぞご家庭のシェフとして盛り付けてください」と書いてある。そう言ってもらえると俄然シェフ気分になります。料理はしてないのに、作品づくりに参加しているような。上手に盛り付けられると、家族にもすごく喜ばれて。
嶋
自分が全部つくったような気になりますよね(笑)。絶妙なバランスだと思います。クリエイティビティを託すと同時に、振り子が行ったり来たりするように誤読可能性をデザインしている。また、商品を世の中に投じると、思いもよらぬ使い方で流行ることもある、それもひとつの「誤読」です。それをメーカーやマーケターが受け止め、また新しい提案をしていくことで、送り手と受け手が文化を一緒につくっていけます。
渡邉
文化とは、誰かが発信したものを他の人が再解釈する、その繰り返しでつくられます。当然、今までと違う判断軸が生まれることでもある。汗をかいたコップを会議室で見るとベタベタしてイヤだけど、真夏のリゾートのテラスで見るとテンションが上がる、ということを歌人の穂村弘さんが言っています。同じものでも見方によってまったく違う価値を帯びることがある。その良し悪しを、「効率」や「すぐに役立つか」という軸で判断すると、短期的な商品は生まれるかもしれませんが、長期的な文化につながりません。そもそも、成長や学習など、遠回りすることでしか本質に近づけないこともたくさんある。情報や商品の提供者は、時間をかけることで価値を見出せる仕掛けを、もっと投じていく責任があると思います。
嶋
これからは「誤読されまくって上等」というくらいの覚悟が、マーケターやPRパーソン、商品開発まで含めて必要だと思います。自分たちの想定が、どんどん塗り替わってしまう世界で生きていかないといけない。それができるマーケターやクリエイターが、今後の“仕事ができる人”になるんじゃないかな。
前段で「生活に溶けるコミュニケーション」と話しましたが、常につながっている状況では、がちがちに決まりきったことを毎日言われると絶対イヤになってしまうと思うんですね。移ろいながら、でも根底には価値がある、生活に寄り添うストーリーが今後は生まれていくんだろうなと思っています。
渡邉
当初の想定を外れても、それ自体を楽しめたらいいですよね。コンテクストデザインは、自転車の補助輪のようなものです。人に何かを強いることはできないし、強いたいわけでもない。自転車に乗るのはあくまでその人自身です。いざ乗りたくなったときに、最初の漕ぎ出しをアシストするのが補助輪。そしてひとたび漕ぎだしたら、もっと遠くに行きたいなとか、漕ぐことって楽しいな、と思ってもらえるかもしれない。一人ひとりの表現が自然に発露するようなサポートを、マーケターやPRパーソンができると、いちばんいいのかなと思います。
使い手が作り手に、消費者が表現者に変化することを促す「コンテクストデザイン」に取り組む。企業のビジョン策定やサービスデザイン、アートプロジェクトまで幅広く手掛ける。主な仕事にISSEY MIYAKEの花と手紙のギフト「FLORIOGRAPHY」、一冊だけの本屋「森岡書店」、日本経済新聞社やJ-WAVEのブランディングなど。慶應SFC卒業。近著『コンテクストデザイン』は登壇した会場や縁のある書店等のみで販売。趣味は茶道、茶名は仙康宗達。J-WAVE「TAKRAM RADIO」ナビゲーター。
1993年博報堂入社。コーポレートコミュニケーション局で企業の情報戦略に携わる。01年朝日新聞社出向。若者向新聞「SEVEN」発行。02〜04年、博報堂『広告』編集長。04年「本屋大賞」立ち上げ参画。現NPO本屋大賞実行委員会理事。06年既存の手法にとらわれないクリエイティブエージェンシー「博報堂ケトル」設立。雑誌『ケトル』などメディアコンテンツ制作も。12年本屋B&B開業。主な仕事は資生堂、レクサス、ZOZOなど。著書『嶋浩一郎のアイデアのつくり方』、『欲望する「ことば」「社会記号」とマーケティング』(松井剛 共著)等。カンヌクリエイティビティフェスティバルで11、13、15年にPR部門審査員。