瀧川:博報堂キャリジョ研は2013年に博報堂の有志で立ち上げたプロジェクトで、女性のインサイトを調査することでマーケティングに活かす活動をしてきました。しかしこの数年、“女性をターゲットにする”という考え方も時代と少しずつズレてきているような気がしていて。いまはもう少し大きなソーシャルテーマに取り組んでいきたいと考えています。今日は西森さんに、ジェンダーの視点も入れながらメディアにおける多様性のあり方についてお話しをうかがえたらと思っています。
西森:今「女性」をターゲットに語ることって、むずかしいし過渡期ですよね。例えば、私は仕事柄お笑い芸人の方を取材する機会が多いのですが、女性の芸人さんだけ「女芸人」とか「女性芸人」とくくらないといけないのはどうなのかっていう思いもありますよね。「女芸人」だけでコンテストをやることもどうなのかとか。でも、多くのテレビ番組で、男性芸人ばかりがひな壇に座っていたり、男性芸人が作ってきたルールで「笑い」がジャッジされている現実があるのだったら、女性だけのコンテストがまだあってもいいと思うんです。同時に、「女芸人だから」こうであれということを押し付けられることには疑問を持つし。
瀧川:よくわかります。博報堂キャリジョ研が立ち上がったのは9年前で、その頃はまだ「女性」と区切ることに意味があったかとは思うのですが、いまの時代もまだ“キャリジョ”でいいのか、という議論はメンバー内でもあるんです。それでもまだ不平等があるからこそ、フェムテックといった課題に取り組む意味があると思いますし、マーケットだけでないソーシャルな課題に向き合っていきたい。本当に過渡期ですよね。
瀧川:西森さんは韓国のコンテンツにも造詣が深いですが、韓国のジェンダー観がいまどうなっているのか教えていただけますか?
西森:とにかく韓国のエッセイや小説がすごいですよね。日本の書店でも韓国フェミニズムの棚ができるくらいですし、装丁もおしゃれで手に取りたくなる本がたくさん。というのも、韓国ドラマが日本に入ってくるとき、どんなに刑事ものや群像劇であっても、なぜか「ラブコメ風」のジャケットにデザインを変えてしまう問題というのがあって。でも、韓国のエッセイや小説は、そういう「女性ならこういうの好きでしょ」というデザインに変えられないという意味でもいいんですよね。韓国では、本と映画、ドラマはそれぞれ独自の発展をしていて、本にはフェミニズムがテーマのものが多いんですが、映画やドラマでは、そこまで直球で扱っているものは多くはありません。もちろん映画は最近では、レズビアンの中年女性を描いた『ユンヒへ』があったり、天才野球少女がプロの世界を目指す『野球少女』、小説もベストセラーになった『82年生まれ、キム・ジヨン』、女性同士のバディ刑事もの『ガールズ・コップ』など、増えてきたんですが、ドラマとなると、フェミニズムが直接描かれているというよりも、女性が自分自身をちゃんと愛するとか、自己肯定するという感じのものが多いように思います。みなさんは韓国のコンテンツを観て感じることなどありますか?
石田:私が韓国ドラマを観ていると、女性が社会の中で感じる「生きづらさ」を描いていたり、偏見やセクハラ、パワハラを描いて問題提起をしているような作品がけっこうあって。それもフェミニズムやジェンダーの問題を描いているのかなと思ったんです。こういう表現って日本のドラマではあまり観ないシーンなのかなと思ったんですが、どうですか?
西森:『椿の花咲く頃』とか『よくおごってくれる綺麗なお姉さん』とかのことですかね。韓国の女性キャラは、ちゃんと反論できるところも魅力ですよね。
女性にふりかかる問題を描いたドラマはけっこう日本にもあるんですよ。2015年に放送された坂元裕二さん脚本の『問題のあるレストラン』もそうですし、野木亜紀子さんの脚本の作品は、『逃げるは恥だが役に立つ』をはじめとして、いつもフェミニズムの観点があります。最近では『妖怪シェアハウス』も、コメディなんだけど一話に「ミソジニー」っていうセリフも出てきて、フェミニズムを真っ向から描いてますね。
瀧川:本のイメージもあってか、韓国の方が価値観のアップデートが進んでいると思っていました。
西森:そうですね。けっこうそう思われてるところは多いですね。韓国では、日本のように小説原作や漫画原作の映画が多いわけではなくて、オリジナルが多かったんです。最近は漫画(ウェブトゥーン)原作も増えてきました。さっきも話題に出ましたが、小説原作の『82年生まれ、キム・ジヨン』が映画化されるときはすごく批判が大きかったようです。「評点テロ」といって、映画を観てもいないのにネットで悪評を流す人がいたり、小説が発売されたときは、女性アイドルが原作を読んだというだけで攻撃されたり、反発も大きいんです。
信川:評点テロは、アンチフェミニズムの、多くは男性によるものかもしれないと推察するのですが、その断絶というのは日本にもありますよね。日韓での違いはあるのでしょうか?
西森:日本にも特有の断絶の表れ方ってあると思うし、これは簡単に結論づけられる話ではありませんが、やはり兵役があるのは大きな違いであるのではないかとも言われています。これだけ韓国にフェミニズムの本があるのにも関わらず、日本によくある男性学のような本、男性の弱さを見つめなおしましょうという本は、あまりみかけないんですよね。日本で翻訳されている本でいうと、『あやうく一生懸命生きるところだった』は男性が一生懸命生きるのをもうやめましょうと言っているけれど、それはジェンダーからの視点ではないと思うし、『私は男でフェミニストです』とか『僕の狂ったフェミ彼女』も、男性自身のことを考えるというよりも、男性とフェミニズムの本です。
韓国では、自分を愛しましょうというメッセージはあっても、男性が自分の弱さを見つめましょうというようなものは、あまり見かけないんですよね。だから、『ドライブ・マイ・カー』のような作品は、日本特有の世界を描いているからこそ、評価されたんだろうなと改めて思いました。
下萩:逆に、その意識に苦しんでいる男性は多いんじゃないでしょうか。
西森:それはあるんじゃないかと思います。Netflixの『D.P. -脱走兵追跡官-』は兵役の過酷な世界を描いているのですが、“弱くていいんだよ”とか、“男らしさから解き放たれよう”というメッセージを簡単に描くことはできなんだなと改めて思いました。
下萩:強い男性が描かれているからこそ、日本の女性達が韓流ドラマでキュンキュンするのかも…。その反面、韓国の男性はすごく苦しんでいるのかもしれないですね。
西森:『愛の不時着』のヒョンビンなんてすごいですよね。強い男である上に、女性のケア役割まで担っていて。日本だったら、そんなの嘘くさいとなりそうですが、韓国ではそういうつっこみが表立ってあるわけじゃないでしょうしね。
日本の俳優が、「日本で全力でラブストーリーに向き合うのは照れるしむずかしい」という趣旨の発言をして炎上もしていましたが、男が女を守らなければという役割期待から、日本の男性は解放されているからこそ、良くも悪くも、韓国ドラマのような全力で女性に向き合うような恋愛ものを演じることはむずかしいと思うんだろうなと思いました。
瀧川:日本のドラマのテーマで印象に残っているものはありますか?
西森:さきほども話題に出ましたが、野木亜紀子さんの脚本のドラマは意識的にジェンダーにまつわる問題を描こうとしていますよね。最初に如実に見えたのは『逃げるは恥だが役に立つ』。やっぱり「好きの搾取です」というのが衝撃的でした。これは原作から通底するテーマですが、好きあったふたりが結ばれて、いざ結婚となると急に女性側がケアをするのが当たり前になる。これまでなんとなく流されていたことを「好きの搾取」という言葉で表現したのが斬新で。あと、石田ゆり子さんの役を通してエイジズムの問題も描いていましたね。「おばさん」が恋のライバルであることで敵視して煙たがる若い女性キャラクターに対して「私たちの周りにはね、たくさんの呪いがあるの」「自分に呪いをかけないで」というセリフがありましたが、その「呪い」って若くなくなったら女性の価値がなくなるということですよね。あそこまで意識的な文脈でセリフを書いていることに衝撃を受けました。
瀧川:私もあのセリフを聞きながら、もう「私おばさんだから」と自虐をする必要はなくなったんだなという時代に変わってきたような気がしました。同時に、それを笑えなくなったのかなとも。日本だと20年くらい前の酒井順子さんの著書『負け犬の遠吠え』前後から、女性の自虐ギャグが言われるようになった気がしているのですが。
西森: 2000年代前半にそういうムードが出はじめたのって、2001年にヒットした『ブリジット・ジョーンズの日記』が確実に関係あると思っていて。ちょっと太めの女の子が、恋愛もあけすけで、周囲の考える女性らしくない自分もさらけ出すということは、それ以前にはあまりなかったですよね。いつも綺麗で、何事にも文句も言わない理想的な女の子じゃないとダメって言われ続けてきたから、無理していた自分をさらけ出すことができてすごく気持ちがよかったし笑えた。それまで女性は自虐すらさせてもらえてなかったんですよね。
でもそれが当たり前になってくると、自虐にも露悪的で言い訳めいた作用が出てくる。でも、何もかも理想的な姿を求められる世界……、もうそんなこという人は減っただろうけれど、「女子力の高い女であれ」みたいなことを言われのはしんどいですよね?だからこそ、いつも綺麗で頑張っている状態は、無理しているんです、みんなしんどいときはしんどいし、だらしがないときはだらしがないんですってことは、言っていかないといけないとは思いますね。
先ほどの話に戻すと、そもそもおばさんを自虐としてしか扱えないのがいけないんですよね。社会的にもっと肯定的だったら自虐じゃないのに。
信川:ポジティブにおばさんを捉えるってことですね。
西森:おばさんであることを否定しなくていい、というムードは来てますよね。岡田育さんの本『我は、おばさん』も話題ですし、阿佐ヶ谷姉妹さんもおばさんであることにポジティブだし、見ていてすごく楽しいですよね。おばさんっていう状態が悪いものだとか、恥ずべきものだっていうこと自体がエイジズムに繋がっているので、それに抗うためだけじゃないけど、自分のためにも、どんどん肯定していきたいと思います。
下萩:あるべき女性像を規定しないという意味でも、多様性についてうかがいたいのですが、いまSDGsやLGBTQを意識しすぎるあまり、ドラマや映画でも強引にキャラクター設定をしているんじゃないかと思うことがあって。過渡期だからこそ、まずは描くことで浸透していくのかなとも思うのですが…。
西森:その辺はすごくむずかしいところですね。多様な属性のキャラクターを出せば、それでOKであるという時代ではなくなりました。そこにまだ残っている偏見や差別をすでになくなったことのように扱ってはいけないし。そして、いろんな属性の人を描くことでまず知ってもらいたいということが先行して、無意識で誰かを踏みつけてしまうこともある。無意識でいないためには、勉強が必要になってくると思うし。とにかく、メディアで発言している限りは、学び続けるしかないと思っています。
下萩:たしかにそうですね。私の母親が『私の家政夫ナギサさん』を観て、いまの女性の働き方や結婚に対しての価値観がアップデートされたと言っていて、メディアコンテンツだからこそ描ける未来もあるんだなと感じました。
西森:そうですね。まだまだ現代にどんなアップデートがされているかが、まったく実感のない世代の人にまで届くのが、ドラマというのは大きいと思います。ただ、とっつきやすいからこそ「無意識」で間違ったことを描いて、それが広まってしまう可能性もあるので、ドラマやもちろん映画にしても、私のような立場の人にしても、「こういう関係性や属性を描いたからOK」とは思わないで、慎重でいないといけないとは思います。
西森:これまでの男性的なお笑いって、どうしてもフリとオチをしっかり固めないとダメ、というような風潮があったと思うんです。でも最近は、普段の生活の中にあるおもしろさとか、雑談の中にあるおもしろさみたいなものを、とくに女性芸人さんが示していると思っていて。もちろんそれが女性的なおもしろさというわけではないですし、最近では男性芸人さんでもラジオで他愛もない話をする傾向が出てきましたよね。好きな食べ物の話とか、スーパーの話とか、ちょっと前だったら「そんな楽屋トークやめてよ」と言われそうな笑いが認められるようになってきた。
西森:それはお笑いだけでなくドラマや映画の現場でも若い世代からとくに風通しがよくなっている感じもあります。プレスシートやパンフレットの仕事の依頼があって『チェリまほ THE MOVIE 30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』という作品のの撮影現場に取材で入ったんですね。そこにいる誰もが対等な感じで、すごく開かれたいい雰囲気だったんです。監督もプロデューサーも30代で、俳優さんに指示をするときも明確な言葉で伝えるし、なにか違和感を感じたら年齢が上か下かに関係なくフラットに話しあえるような空気があって。いま、映画の現場の問題点がたくさん出てきていますが、彼らのような若い世代が現れることで、確実に空気が変わるはずなんですよね。しかも、関係性のよさがそのまま作品に反映されていると感じました。
瀧川:人が変われば仕事のやり方も変わって、空気やお作法も変わっていくということですよね。いま制作現場の変化についてお話しいただきましたが、さいごにメディアのコンテンツについて、今後に期待することなどおきかせいただけますか?
西森:私は、まだあまり世の中に知られていない社会問題に触れるために、ドキュメンタリーの存在が大きいと思っています。土日に良いドキュメンタリーが多いんですよ。『NHKスペシャル』に日本テレビの『NNNドキュメント』や、TBSの『ドキュメンタリー 解放区』、報道番組ではありますが、TBSの『報道特集』なんかを見ています。戦争や災害のように忘れてはいけないこと、地方にある問題で、まだよく知られていないこと、貧困や性被害のことなんかについての番組もあります。時間をかけて取材して番組が作れることがテレビの良心だと思いますし、そういう問題提起からフィクションが生まれることも多々あります。最近は、しっかり取材をしたり、専門家に入ってもらいながらドラマを作るケースも少ないながらも出てきてるんですよね。そういうコンテンツの作り方に希望を感じています。
瀧川:作り手が変わることから社会を変えていくという側面だけでなく、ドキュメンタリーのようなコンテンツそのものに気付きがあるということですね。コンテンツから学んで新たなコンテンツを生み出す。その循環は、メディアならではのよさかもしれないですね。
1972年生まれ、愛媛県出身。ライター。大学卒業後、地元テレビ局に勤務の後、30歳で上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。アジアのエンタメについて数多く執筆し、2016年から2020年まではギャラクシー賞の選奨委員を務める。共著に「韓国映画・ドラマーーわたしたちのおしゃべりの記録2014~2020」、「『テレビは見ない』というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む」などがある。