全9回の「BXラウンドテーブル」に参加された5名の研究者の方々に、それぞれの専門の観点から、BX(ブランド・トランスフォーメーション)に対する考えを寄稿していただきました。
ブランド・マネジメントにおいて、ひとつの正解というものは存在しない。なぜならばブランドの価値の多くは、その顧客の心(脳)の中に存在しており、人の認知は文脈に依存して変化するものだからだ。すなわち、時代、場所、社会的状況、経済、文化、個人の価値観やライフスタイルなど様々な背景要因によって、同じブランドでも見え方は変わる。過去のブランドの成功事例や、マーケティング研究を丹念に調べ上げ、それと同じことをしても、必ずしも成功できないのはそのためである。
本稿では、BX(ブランド・トランスフォーメーション)、すなわち、新しい時代のブランド戦略を考えるうえで、従来と考え方を変えていくべき点、変わらずに大切にするべき点、この2つに整理して筆者の考えを論じていきたい。
ブランド研究の第一人者ケラーは、その大著『戦略的ブランド・マネジメント』1)の中で、ブランドマネジャーが頭に置いておくべき理念のひとつとして、「原点との一貫性」を挙げている。競争の激しい市場においては、ブランド・マントラ(真髄)を定義して誤解なく顧客に伝えていくことが、ブランド活性化戦略の基本とされる。企業が成長して大規模になるにつれ、各種マーケティング施策がしばしば本来のコンセプトから乖離しがちになるため、その点において常に原点を参照せよという指摘は的を得ている。たとえば、製品の「親しみやすさ・身近さ」がブランド・コンセプトであるならば、革新的で価格が高めの製品を発売することは、ブランド・イメージの希釈化を招き、好ましくない戦略と分析できる。
しかしBXでは、この「原点との一貫性」を大切にする視点を捨て去る勇気が必要だと筆者は考えている。時代の潮流を読み、原点すらも変革してしまう柔軟性が、BXでは重要となる。たった10年前と比べても、我々の生活様式は変化し、消費者の価値観は変化した。たとえば、「信頼できる」「かっこいい」というブランド・イメージは、これまで間違いなくブランド価値を構成する重要な要素だったが、今後もそうであり続けるかは疑問だ。これからは品質の信頼性は、ブランドではなく、カスタマーレビューやAIによる査定などで代替されるようになるだろう。「かっこよい」イメージの基準も変化する。リキッド消費(サブスクリプションや中古売買等、所有を前提としない消費形態)が主流となれば、そもそもブランドを所有すること自体がかっこ悪くなるかもしれない。原点を大切にする姿勢が変化への対応力を削いでしまうのならば、一貫性よりも、「柔軟性」「新しさ」「変化への適応」をコンセプトに据えた方が良い。
ただし、このような変革は、目標として掲げるのは容易いが、実際にはとても実行が難しいのも事実だ。なぜならば人間には、「現状維持バイアス2)」があり、「改革する」か「しない(現状維持)」かの意思決定をする際、圧倒的に現状維持を好む傾向がある。理由はいくつかあるが、ひとつには、損失回避傾向3)があるためだ。すなわち、人は、得られるものよりも失うものの大きさを感じやすいという特徴がある。そのため、改革によって得られるものより失うものの大きさを過剰に感じ、改革の選択肢をとることを躊躇してしまうのだ。さらに、長く同じ組織にいる人間には、改革は、これまでに自分が推進してきた戦略を否定する行為とも捉えられ、あたかも自己を否定されるような感覚を味わうことがある。この場合、改革は、あらゆる人間が持つ「自分自身の評価を肯定的に維持したい」という基本的欲求に対する強大な脅威となるため、ますます難しくなる。
その困難を乗り越えて、一歩どころか、二歩・三歩先の未来を考え続けることが「柔軟性」である。たとえばBXでは、そもそも「製品」がブランド化の対象という発想自体も転換すべき、と考える。リキッド消費においては、製品を所有しないため、ブランド化の対象は製品以外にシフトしていく。すなわち、製品を使用した時の顧客の「体験」、サブスクリプションサービスが提供される「場所(プラットフォーム)」などが、新しいブランド化の対象となって消費者の心に刻まれていく。Appleでいえば、Macbook AirやiPodよりも、iCloudやApple musicが重要、ということである。つまりメーカーは、良い製品を売るのでなく、顧客が製品を使用した時に感じる満足感や喜びを向上させるための仕組みを「ブランド」として捉えていくことが重要となる。では、これからの消費者は何に喜びを感じるのだろうか?どんな経験を提供すればよいのだろうか?注意すべきは、この問いの答えは、消費者の主観的満足感に係わるものであり、文脈(時代、場所、社会状況など)に応じて絶えず変化していくことだ。この点からも、一度構築した仕組みを短い期間で進化させる柔軟性が、新しいブランディングのキーワードになると予測される。
ここで近年、産業界で声高に叫ばれ続けている「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」について少し触れたい。2000年代より日本では政府を挙げてデジタル化に積極的に取り組んできた。しかし、「世界デジタル競争力ランキング2021」4)では、日本は28位とランキングを落とし、諸外国の後塵を拝している。その原因は、日本の法制度や商慣習、組織形態など様々であろうが、筆者は、まずは「DX」の誤解を正す必要があると考えている。なぜDXが進まないのかというと、「これまでオフライン(非デジタル)で行っていたビジネスの価値を棄損しないようにデジタル化しよう」とするから、現状維持バイアスにより失われる部分ばかりが目につき、DXを標榜はするものの本音ではあまりやりたくない、という心理があるように思う。事実、2020年にはコロナ禍によりあらゆる業界で否応なくデジタル化が進められたが、2022年になって、オフラインに戻す動きも少なくない(例えば、オンライン販売やオンライン相談を終了する等)。これは、全くDXが出来ていなかったということを意味する。デジタルでなければ実現できない新しい価値を提供することがDXであり、本来のDXは、一度始めたらオフラインに戻ることは必要ないし、そもそもできないはずなのである。
BXは、決してDXを必須としていない。DXは企業のビジョンのもとに選択すべきひとつのオプションである。ただし、世界的に政府や公共サービスのデジタル化が進む未来で、人類が未知のウィルスや自然災害などの脅威から完全に自由になれない以上、DXを検討すること、さらにデジタルの次に来る世界を見据えた戦略を考えておくことは、あらゆる企業にとって重要なことだ。向こう10~20年間は、オフラインでは提供することが不可能だった新しい体験価値が、強いブランドを作っていくことになるだろう。
一方で、BXによって、これまでと変わらないものもたくさんある。そのひとつは、ブランドの最も基本的な機能である「他社と自社を区別するためのしるし」としての役割である。多くの顧客から愛される「しるし」は、変わらずに企業の資産であり続けるだろう。
BXでは、これからのビジネスシステムのあり方について、従来はサプライヤー、メーカー、小売など、役割が明確に分かれていたものが、その垣根が曖昧になり、プロジェクトベースで複数の企業が協働するような流動的な組織体制が主流になるだろうと提起している。従来はライバル同士だった企業が、同一のプラットフォーム上で共に製品やサービスを提供し、同一の価値を顧客に提供することもあれば、同時に別の企業と協働して別の価値提供に加わることもあり得る。こうなっていくと、企業の垣根が曖昧になるとともに、ブランドという概念も曖昧になり、流動的なビジネスシステムの中でその意味を失っていくように思われるかもしれない。
リキッド消費の普及も、同じような流れを予期させるかもしれない。物質主義を脱し、人があまり物を保有しない生き方を好むようになることで、いわゆる「ブランドもの」としてステイタスのある製品を愛用する消費スタイルは失われると予想される。ヴェブレンのいう顕示消費5)は、モノを所有するからこそ意義があった。サブスクリプションで短期間だけ手にする高級ブランドバッグは、ステイタスの象徴とはなり得ず、したがってラグジュアリーブランドが人の顕示欲求を満たすことはなくなる。こうなると、やはり「ブランド」という概念は意味を失っていくようにも思われる。
しかし筆者は、人が物を所有せず、企業間競争の垣根が曖昧になっていく世界でも、「差別化」の考え方は失われないだろうと考えている。なぜならば、消費者はブランド選択によって、他者に同調したり差異化しながら自らのアイデンティティを構築したり、バラエティシーキングを行って消費生活を楽しんでいるからである。「ラベル」の力はとても強い。人は名前を付けることで、対象を区別する。たとえ企業や製品が市場競争の単位ではなくなったとしても、提供される価値、サービス、プラットフォーム、ビジネスプロセスなどの新しい単位に名前を付けて差別化していくことで、それがブランドになっていくだろう。消費者はブランドという「しるし」によって価値を識別し、複数の選択肢の中から自らが好ましいと思う価値・サービスを選択し、それを消費することで自己表現をする、という行動を今までと同じようにとり続けるだろう。
2020年春、コロナ禍で街がほぼロックダウン状態となった時、生命維持に危機が及ぶことはなかった人々も、大きな喪失感とストレスを味わった。我々は自身の人生の豊かさの多くを、企業と、そこで働く人々が提供してくれていたのだということを思い知った。すなわち、企業は、人間にとって、単に基本的欲求(食べる・寝る・快適な空間で暮らす)を満たすだけの存在を超えて、消費を通じて新しい自分を発見したり、他者とつながったり、美しい製品を通じて喜びを提供したり、あらゆる形で「心満たされる豊かな人生」を与えてくれる存在なのである。
同様に、ブランドも、人生に新しい価値や喜びを提供してくれる存在であろう。そのためには、多様な選択肢、すなわちブランドの差別性が必要である。全員が同じ服を着て、毎日同じものを食べて、いつも同じサービスを利用している状況では、ワクワクするような体験はもたらされない。ブランドの単位が変わっても、提供される場所がオンラインになっても、ブランドは名前を与えられれば、これまでと同じく、「他と違う」という認知を通じて、消費者に「新しい自分」を発見させてくれる存在であり続けるだろう。
引用文献
1) Keller, K.L. (2008). Strategic Brand Management: Building, Measuring, and Managing Brand Equity 3rd ed. Prentice-Hall.(恩藏直人監訳『戦略的ブランド・マネジメント(第3版)』東急エージェンシー、2010 年)
2) Samuelson, W., & Zeckhauser, R. (1988). Status quo bias in decision making. Journal of Risk and Uncertainty, 1(1), 7-59.
3) Kahneman, D. & Tversky, A. (1984). Choices, values, and frames. American Psychologist, 39(4), 341-350.
4) International Institute for Management Development (2021). World Digital Competitiveness Ranking 2021. (https://www.imd.org/centers/world-competitiveness-center/rankings/world-digital-competitiveness/) (2022年5月6日アクセス)
5) Veblen, T. (1899). The theory of the leisure class. New York, NY: Macmillan.(小原敬士訳『有閑階級の理論』岩波書店、1961年)